変化

1年くらい前から妙に、音がよく聞こえるようになった。最初は夫とテレビを見ている時だった。音声がうるさく感じる。「もう少し音量絞って」と言うと変な顔をされた。
朝、ちょっとした外の物音で目が覚めてしまう。雀のさえずりが、ものすごく明瞭に聞き取れる。授業中、教室の一番後ろで寝ていた学生の寝息が聞こえてきてびっくりした。鼾ではない。
家にいると、遠くの方で小さい子どもの泣いているのが手に取るように聞こえる。その子どもをお母さんがあやしている声。そのうち、風で庭木の葉がかすかにそよぐ音や、玄関先で飼い犬が身じろぎした音まで聞こえるようになった。前はそんなもの聞こえなかった。
ちょっといろんなことに神経過敏になっているのか、いや更年期障害が始まったのかと思っているうちに、それにも慣れてきた。


聴覚だけではない。寝る前にストレッチをするのだが、この1年くらいでやけに体が柔らかくなってきた。脚を投げ出して座って自分の膝にやっと額が触れるくらいだったのが、いつのまにか床にぺったり顔がつく。脚も意外なほど上がる。若返り? それはないか、いくらなんでも。
くにゃくにゃとストレッチをやっている私を見て、「おまえ、すごいな」と夫が驚いて言った。「歳なんだから無理するな」。いや、そう無理してるわけじゃないよ。なんか関節が柔らかくなっただけ。
そのせいかどうか、駅の階段を一気に駆け上がるのが苦にならなくなった。むしろ駆け上がるのが気持ちいい。階段を見ると駆け上がりたくなる。エレベーターは利用しなくなった。
おかしいのは、梯子も見ると登りたくなることだ。子どもの頃、木に登るのが好きだったのを思い出した。高いところから世界を見るのは楽しい。用もないのに名古屋駅のツインタワーに行き、展望台に上がった。いい気分だった。


高いところが好きになると、気持ちまで高慢になるのだろうか。やたらと夫に威張ったり我がまま言ったりしたくなった。
「ご飯まだ?」「え。今日オレが作るの?」「当然でしょ。厭ならどこか食べに連れてけよ」「何その上から目‥‥」「もういい。アイス食べて寝るからいい」「わかった、じゃどこ行く?中華にしよか」「一人で行けば」「何なんだ」とか。
「ねえどっか遊びに行こうよ」「今仕事中」「ねぇーえ」「し・ご・と・ちゅ・う」「いやだぁ、どっか行こうよぉ〜」「ちょっと邪魔するな」「ねぇねぇねぇねぇねぇええええ!」「やめてくれー」とか。
私はやたらと凶暴になって、ムカつくと夫の手や顔を引っ掻いた。夫は生傷が絶えないようになった。


ある時、電車に乗り遅れそうになって凄い勢いで駅の階段を駆け上り、車両に飛び込んだ。肩で息をしながら閉まったドアに思わず手をつく。ゆっくり遠ざかっていくホームに残った人が、皆こちらを凝視していた。おばさんが必死の形相で走って電車に飛び乗ったのが、そんなに珍しいのか。
なんとなく手を見る。さっき、私、両手使って階段登ったな‥‥‥。
別にいいや。だってその方が早いし。私は汚れた掌をペロペロと舐めてきれいにした。周囲の人が静かに後ずさるのがわかった。気にしない気にしない。


夜、家に帰ると、明かりが一つもついておらず、キッチンのテーブルの上に夫の書き置きがあった。「もう無理」と書いてあった。
「とうとう出ていったようだにゃ」と、タマがすり寄ってきて言った。「こうなることはわかってたろ?」
うん、なんとなく。それよりおなかがすいた。
「一緒に食べにゃよ」。タマは喉をゴロゴロ鳴らしながら言った。
「隠しておいたネズミご馳走するよ」
「わぁいありがと、嬉しいにゃ」



てことで、「猫の日」とやらに因んで猫になる話でした。(深読み禁止w