大学は「幸せ」について話し込む場所

昼休みに、一般教養の講義に来ている学生の一人に「作品を見てほしい」と言われ、アトリエの外壁に立てかけたかなり大きなそれを見ながら、立ち話をしていた時のこと。
まもなくアトリエからその科の実技助手(たぶん)の人が出てきて、「ふむ」というような感じで少しの間横にたたずんでいたが、そのうちどこかに行ってしまった。20分か30分かわからないがしばらくしてその人が戻ってきて、「まだ話してたの!長いねぇ!」と言った。ここで話をしていると邪魔だとかそういうニュアンスではなく、単純に話をしている”時間の長さ”に驚いているようだった。
そんなことに驚かれたことに、驚いた。この大学ではいつから、講師と学生が昼休みに一つの作品について何十分か喋っているのが、珍しいことになったのだろうかと。熱心に学生と話す教授や講師を何人も知っているので、たまたまその人の感覚がそうだっただけなのかもしれないけど。


芸術大学とは黙々と制作に励んでいる学生がいる一方で、学生同士、あるいは教員と学生が、あちこちで作品を前にして議論しているものだ。そして黙って絵に没頭していた学生が後で、「さっき隣のアトリエで話してるの聞こえたけど、あれについては自分は‥‥」などと議論を蒸し返したりするものだ。
実際はそうでないことが多いかもしれないが、「そういうものだ」としないと、芸術大学など意味がなくなる。


その後、話の続きがてら昼御飯を食べに行ってあれこれ喋っている時、突然「オオノさんにとって、幸せって何ですか?」と、至極真面目な顔で聞かれた。直球な質問に少し驚いてみせた私に学生は、「でもそういうこと考えませんか?」とまた至極真面目な顔で問うた。ああ、驚いてはいけないところで驚いてしまったと思った。さっきの助手の人のことをとやかく言えない。
それから(詳細は省くが)「人間て何でしょうね」という話になった。芸術の話から始まってあれこれやりとりしていったら、「どうやったら作品が売れますか?」でも「どうやったらアーティストになれますか?」でもなく、「幸せって何ですか?」「人間て何でしょうね」という問いに漂着する。すこぶる健全である。


約2時間の間に2回、「投票に行きましょう」と言った私に彼は、「やっぱ行かなきゃいけないですかね」と言った。
確かに、投票と「幸せ」との間には圧倒的な距離がある。選挙権を得てから33年の間一度も棄権していない私は、そう実感している。今更投票することに意味を見出せない方が、普通かもしれない。しかし「生きる」ということが既に、意味の見出せなさ具合に、「幸せ」との距離に向き合い続けることなのだ。そういうことを自覚するのは人間だけ。その意味で、投票という最大限に希望の込められた絶望的な行為こそもっとも人間的な振る舞いだし、「幸せって何?」「人間て何?」という問いに自らを晒す良い機会である。
‥‥と、(その時は非常に簡単な答えで済ませたので)ここに改めて書いておこう。