言葉の抜け殻と紙の帽子

このところは毎週金曜日に、仕事の後で実家に寄って母をピックアップし、介護施設の父を訪ねるのが習慣になっている。
昨日、他の老人がテレビを見たり、クリスマスの飾り付けをスタッフの人と一緒に作っている食堂の中で、父は一人だけ離れたところで窓の方を向いて車椅子に座っていた。窓の外の景色を眺めているのかと思って見ると、その視線はぼんやりと目の前のテーブルのあたりを彷徨っていた。何も見ていない目だ。
「お父さん」と声をかけてようやく、首をほんのわずか動かした。言葉は出てこない。


この夏に介護施設に入居してまもなく、誤嚥が元の肺炎で病院に搬送されるまでは、父はまだ普通に喋ることができていた。しかし高熱が続き危機的状況に陥って最後に強い薬を投与されて一命を取り留め、長い昏睡状態から醒めた時は喋り方がおかしくなっていた。
それでも2ヶ月くらい前までは口数が少ないながらも、会話があった。1ヶ月くらい前までは声をかければ「ああ」という顔をし、手を挙げることもあった。
それが今ではほぼ無口、無表情になっている。てんかんを押さえるために飲んでいる神経系の薬も、影響しているかもしれない。てんかんが起きたら今度こそ危ないと言われているので、それを飲まずにいることはできない。
あの時は家族は皆、なんとか命を救ってほしいと思っていた。医師たちも全力を尽くしてくれた。父の生命力もあったのだろう。だから生き長らえただけで有り難い、それに比べたら言葉など喋れなくなったって‥‥と思うしかないのだけど。


母と二人でかわるがわる話しかけている間も、父は依然としてぼんやり黙って前を向いていた。食事中でもないのに、なぜか口元だけがモグモグと反芻している牛のように動いている。
「お父さん、ご飯はちゃんと食べてる?」
「‥‥‥‥ハイ」
やっと言葉が出た。しかし「ハイ」だ。母にも私にもそんな返事をしたことはない。スタッフの人と思い込んでいるのかもしれない。
前はあんなに「お母さん」「お母さん」と言っていたのに、その言葉がまったく聞かれなくなったので、母は淋しそうだった。
「私のこと、ここにいるおばあさんの一人だと思っているのかしらね」
「うーん、お母さんということは何となくわかっていると思うけど。言葉に出てこないだけじゃない?」と答えたが、今いち自信がない。
猫のプリントのハンカチを出して、「お父さん、これは?何に見える?」と訊いた。
「‥‥‥‥ネコ」
一応、図像認識はできている。
「お父さん、私の名前は?」
父は覗き込んだ私の顔にやっと焦点を合わせ、
「‥‥‥‥サキコ」
と呟いた。なんとか私の名だけは覚えていてくれた。一度、母と私を取り違えたことがあったので、それからはいつも父に会う度、まず「お父さん、私。サキコだよ」と言ってきたのが残っているのかもしれない。


高校の現代国語の教師で、いつも本を読み、細かい字で書き物をし(年賀状すらその細かい字で埋め尽くし)、よく議論し、よく説教し、言葉の使い方に厳しい「言葉の人」だった父は、命と引き換えに言葉のほとんどを失った。
結局この日、訪問中に父の発した言葉は「ハイ」と「ネコ」と「サキコ」だけだった。それらもいずれは失われていくだろう。
背を丸めた父の姿が、まるで蝉の抜け殻のような、言葉の抜け殻に見えた。



フロアの入居者の写真のコラージュが、壁に飾ってあった。ハロウィンの時に撮ったものらしい。父も他の老人と同じように、スタッフが紙で手作りしたであろうハロウィンの魔法使いの帽子を被っていた。ニコニコした顔で写っているおばあさんの横で、父は無表情で目の焦点も定まっていなかった。
かつての父ならば、「なんでこんなものを被らなきゃならんのだ」と拒否したはずである。「幼稚園児じゃないんだぞ」と。まさか自分が晩年に、ハロウィンの魔法使いの帽子を被って写真に収まり、それが壁に貼り出されて来訪者の目に触れるとは、想像すらしていなかっただろう。*1
外の世界を文節化して把握する能力を失い、環境に身を任せるしかなくなった父は、毎日服を着せてもらいおしめを取り替えてもらうのと同じように、その帽子もただ被らされるままになっていたのだろう。


もちろんハロウィンもクリスマスもひな祭りも七夕のイベントも、施設の中だけにいる老人たち、ボケかかった老人たちに、少しでも刺激と慰めと楽しみを与えるために、館のスタッフの人々が考えて実行するものだ。保育園や幼稚園に飾ってあるような、絵の具を塗り色紙やボール紙やモールなどを使ったさまざまな壁面装飾の半分は、スタッフの人の援助で入居者たちが作っている。それは「良いこと」なのだと思う。それを無心に楽しんでいる老人もいると思う。
でも、全身「言葉の人」である父の昔の姿を知っている私には、というかほとんどそれしか知らない私は、その写真の父をほのぼのした気持ちで眺めることはできなかった。
いっそ私もハロウィンの魔法使いの帽子を被り、コスプレして父と一緒に写真に収まれば、この遣る瀬なさは少しは晴れるのだろうか。

*1:追記:後でスタッフの人に聞いたら、実際に帽子を被って写真を撮ったのではなく、人と帽子の写真を合成して作ったものだった。それを見て喜ぶ老人もいるのだろう。いずれにしても、そういう写真が貼られていることを父は知らない(認識できない)だろう。