八代亜紀の絵を描いたのは「誰」か?

一昨日発売の『週刊文春』5月23日号に、”「『八代亜紀作』の絵は私が描きました」 大物演歌歌手の盗作疑惑を告発”という記事が3ページに渡って掲載されている。
●リード

演歌の大御所・八代亜紀は「画家」としての顔も持つ。箱根には広大なアトリエがあり、フランスの権威ある展覧会に入選したほどの腕前という。だが、「八代亜紀作」の絵画は本当に自分自身で描いたものなのか? 偶然の一致とは考えにくい重大な疑惑が浮上した。


記事のあらましは以下。
証言者の一人目は美大生のAさんで、予備校時代、別の部屋に10人くらいが集められ、アクリル絵の具で猫や麦わら帽子などの絵を描かされたことが何度かあった。携帯やカメラの持ち込みは禁止。八代亜紀の名前は出されず、絵はすべて回収された。後にバラエティ番組で自分たちの描いたのと同じモチーフ、同じ構図、同じパースの絵が、八代亜紀作の絵と紹介されていて驚いた。
もう一人の現在まだ美大予備校生のBさんは、同じ首都圏の美大予備校の職員に頼まれて八代亜紀の絵を描き、報酬を貰ったことがあるという。Bさんは「まだ進路がきまっていないいま」「わたしだけでなく他の子にも影響がある」と、記事での身元特定を避ける懇願をした。一方Aさんは、「学生の絵を盗み、しかもその作品を売ったりするのでは、プロの画家とは言えないと思います」と、八代亜紀に立腹している。
これらの件について文春の取材を受けたその予備校職員のX氏、八代亜紀の絵の先生である市川元晴氏(「ル・サロン展」の永久会員)、マネージャーは、いずれも疑惑を完全否定している。
あとは、八代亜紀の絵は個性がなく、画学生程度の画力で、作品によって出来不出来のムラがある、契約関係が成立していればいいが、学生が何も知らされていない場合、剽窃として訴える権利がある‥‥など、美術関係者のコメントがいくつか。



5年前、拙書『アーティスト症候群』の「芸能人アーティスト」の章で八代亜紀について書いた。その関係で私も電話取材を受けたので、絵の印象について改めてコメントしたのだが、盗作疑惑があると文春の記者から聞かされた時、実はそんなに驚かなかった。最初に八代亜紀の絵を見たのはテレビの紹介番組で、その時感じたのが「ほんとに全部自分で描いてるんかいな」だったから。
師匠の作品制作の一部を優秀な弟子が任されるということは徒弟制度の昔からあるわけだが、その逆、師匠が弟子の作品を手伝ってやるというのはあまりおおっぴらにされない。しかし実際にはあって、団体展などで自分の弟子を入選させるためにモチーフや構図や色遣いを指定したとか、「指導」目的で手を入れたといった話は、業界内では風聞として流れてくる。


本を書く前、団体展系の絵描きさんと交流があり絵の鑑定の仕事もしている知人に、八代亜紀について訊いてみたところによると、「あれは全部彼女が描いているんじゃなくて、仕上げは先生がやっていると思う。私の周囲では皆そう言っている。キャンバスを前に絵筆握ってポーズとってるところはテレビに出しているけど、描いてる最中は一度もないのも怪しい」。
たしかに私の見た番組でも、絵が具体的に仕上がっていく過程がまったく出てこなかった。「密着取材」の番組なら、ファンならずとも、あの八代亜紀がどのような巧みな筆さばきでああいうリアルな描写(「画学生並み」とは言え、そこそこ訓練した跡も感じさせる)をしているのか、しっかり見たいのが人情だ。「ああ、なるほど。ほんとに描いてるわ、結構上手いわ」と視聴者を納得させる場面を作らなければ、「怪しいぞ」と感じる人は出て当然だろう。


そう思いつつも、当時そのことを特に問題視する気にならなかったのは、「芸能人がいきなり絵を描き始めてそれをウリにしていたら、裏に何かあって当然」という穿った見方があったこと以上に、その後実際に展覧会場で八代亜紀の作品を見て、それが個性も何も無いあまりにも匿名的な絵であることに、むしろ”感心”してしまったからだ。
猫にしろ麦わら帽子にしろその他の静物モチーフの絵にしろ、まるでデパートの特設会場に一山いくらであるような、凡庸な売り絵のパーツを寄せ集めたかのごとき印象。一言で言えばジャンク。よくここまで、内面のまったく見えない、画家個人の拘りも葛藤も意思も企みも感じさせない薄い絵を、何枚も何枚も描けたものだなぁと思った。
といって別に現代アートのように「表層性」を意識してあえて安っぽいモチーフを安っぽく描いているといった、コンセプチュアルなものでもない。写実描写はいわゆる素人レベルより上かもしれないが、一生懸命頑張って描きましたといった妙な素朴さにも溢れている。この素朴さは、旧態依然とした公募展でしかない「ル・サロン」入選をプロフィールで錦の御旗のごとく掲げている、ちょっと残念なアート観ともマッチしている‥‥。


彼女の絵にある匿名性と、写実的だが生気のないどこかぎこちない感じについて、その正体がなかなか掴めなかったが、仮にモチーフを直接見て描いたのではなく、他の絵を模写した(あるいは画学生が描かされて描いた)のであれば、なんとなく納得はいく。
そしてそう指摘されても、多くの人には「ありがちだなぁ」「美術業界では相手にされてないし、芸能人の副業としてファン向けに成り立ってる商売だし、がっかりするのはファンだけだろね」「演歌で十分過ぎる実績があるのに、なんで絵なんかに手を出したかねぇ」としか思われないようなところに、「画家」八代亜紀はいる。
おそらく”「画家・八代亜紀」プロジェクト”ががっちり出来ているのだろう。そのシステムの中で、人の描いたものを一生懸命描き写したかのような個性のない、古臭いヨーロッパ趣味の静物画を量産し、「上手い」「さすがフランスの展覧会に出してるだけある」「歌手にして画家。すばらしい」と、何も知らない人に賞賛され買われることに、八代亜紀の情熱は傾けられているのだろう。
だがまったく同じ絵を無名の予備校生が売ろうとしても、「号6万」のような価格がつかないのは明らかだ。つまり彼女の絵は、”あの八代亜紀”が描いたという「設定」だけに意味のある、八代亜紀のサイン入り色紙(有料)なのだ。
そういう意味で、「八代亜紀の絵を描いたのは「誰」か?」と言えば、紛れもなく、八代亜紀本人である。



Aさんはプロとしての矜持のない八代亜紀にアーティストの卵らしい怒りを示しているが、特殊枠の「画家」である八代亜紀に「プロとは言えない」と言っても、どこか暖簾に腕押し感がある。そもそも美術業界から「プロ」と見なされていないので美術ネタとしては今いちショボいし、芸能ニュースとしてのスキャンダル度も(本人たちにしてみれば「とんでもない醜聞」かもしれないが)あまり高くないのではという気がする。
それよりAさんが一番怒りをぶつけるべき対象は、”「画家・八代亜紀」プロジェクト”から「仕事」を請け負い、立場の弱い予備校生たちを騙したりバイトで釣ったりして元絵を描かせた「首都圏の美大予備校職員のX氏」だろう。この件が事実だとして、いったい幾ら貰ったんでしょうね。昔、美大予備校講師をしていたので、どこの予備校かは若干気にかかる。


しかし取材に応じておいてこんなことを書くのもアレだが、記事を読んで、私がAさんの立場だったら「告発」なんかせず、ずっと知らん顔して黙っているかもしれないなぁと思った。
自分が予備校生の時に描いた文字通り「画学生レベル」の絵、発表したいという意思のなかった絵の出来を世の中に知られるなんて、絵描きの卵だったら恥ずかしいという気持ちが先に立つのではないだろうか(美術史に残る画家がそれを発掘されるならまだしも)。それに、自分の一言で罪の無い八代ファンをわざわざ幻滅させるのも、なんか気が引ける。
‥‥‥騙されてたっていいじゃん、幸せなら。私はたぶん「正義」よりちっぽけな自尊心、真実を知らしめることより無難で曖昧であることを優先するタイプなんだろう。



●追記:制作において他人の手を借りることについて
村上隆ダミアン・ハースト、ジェフ・クーンズなどの名前を挙げて、彼らも「自分で描いていない」というブコメが複数ある。まさかその指摘がツッコミになると本気で思って書いているとも思えないのでスルーしようかと思ったが、念の為。


アーティストが設計図だけ描いて制作を工房や助手たちに任せることは、特に現代アートでは珍しくない。それは第一に制作に作家個人の手跡を残す意味がなく(あるいは作家の手跡とされるものがコピー可能であり)、尚かつ作家個人では実現できない金属加工、塗装などの専門的な技術や労働力が必要であり、そうした制作過程のある部分あるいはすべてを他者に依頼しても、作品のコンセプトには影響が生じないと判断されるケースである。
当然、制作を手伝う/請け負う人々もそのことを承知して仕事しているし、鑑賞者も「全部一人で描いて(作って)いるかどうか」を問題にしない。それはこれらの作品を鑑賞するに際して重要なことではないと了解されているからだ(アシスタントを使うマンガも同じ)。アンディ・ウォーホル村上隆のように、工房制作であることに積極的な意味を見出す場合もある。


八代亜紀の作品は、そういう類いのものではない。画家個人の手跡によってのみ作品の独自性が確保されるオーソドックスな具象絵画であり、サイズ的にも助手などを必要としていない。
もし自分の手跡に拘らずあえて匿名性を狙ったのだと無理矢理仮定してみても、絵を描かされた元美大予備校生Aさんがそのことを知らされていなかったという時点でルール違反となる。そして表向きには、八代亜紀が最初から最後まで誰の助けも借りず一人で描き上げたことになっているのだ(少なくともファンはそう見ているだろう)から、今回の疑惑がもし事実であるなら鑑賞者への裏切りともなる。