夢見られた親密圏・・・『小さいおうち』感想

今年1月から2月にかけて公開されていた『小さいおうち』をDVDで。原作は未読。

小さいおうち [DVD]

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「寅さん」シリーズのイメージが強いせいか、ほっこり系エンターティメントものの多い気がする山田洋次監督はなんとなく苦手で、これまで数えるほどしか観ていなかったのだが、「アナ雪」、『マレフィセント』、『思い出のマーニー』と女同士の愛を描く映画が目立った昨今、前の三作品ほど明確ではないものの、この作品まで“そっち”だったとは知らなかった。今更だろうけど、ちょっと驚いた。
昭和10年から第二次世界大戦が本格化するまでの間、東京山の手の中間層(今の中流ではなくプチブル)の家に奉公していた女性、布宮タキが、年老いてからノートに「自叙伝」として綴った女中時代の話が中心となっている。


(以下ネタばれ)
山の手のモダンな赤い屋根の洋館で、若奥様の時子(松たか子)にさまざまなことを教えられながら、一生懸命働く新米女中タキ(黒木華)。しかし時子の夫、平井(片岡孝太郎)の部下で芸大出の板倉(吉岡秀隆)が、屋敷に出入りするようになってから時子とだんだん惹かれ合っていき、ハラハラしながら見守るはめになる。
やがて戦局は押し迫って板倉にも赤紙が届き、彼が発つ直前に一人で逢いに行こうとする時子を、タキが必死で止める場面がクライマックス。
タキのノートではその時咄嗟の折衷案として、タキが時子の手紙を板倉に届け彼を家に招く(時子が彼の下宿に一人で行くより不自然でないから)ことにしたものの、板倉はとうとう来なかったという話になっているが、タキの死後、開封されていない時子の手紙がタキの遺品の中から見つかる。
タキはなぜ、時子の手紙を板倉に届けなかったのか?と言えば、時子のことが好きで、板倉と彼女を逢わせたくなかったからだろう。長年そのことを苦にして手紙を捨てられなかったが、結局自叙伝には書けないままタキは他界する。
つまり、女中が一人の傍観者(話者)として他人の秘密を語る「家政婦は見た」的な話かと思いきや、メインとなっているのは彼女の「罪と罰」なのであった。


タキは優しく美しい時子を慕い憧れ、それは恋愛感情にも近いものとなっていた。後の彼女の叙述によれば、その時、奥様を行かせてさしあげたいという思いと、行かせてはならないという思いに引き裂かれていた、とあるが、心の奥底には奥様を他の人(男)に渡したくないという、淡い同性愛感情があったのではないかと思われる。
その後、空襲で時子は亡くなったが、田舎に帰されていたタキは生き延びて戦後を迎える。彼女が終生独身で通した理由はわからないが、半ばは自分への「罰」ではないだろうか。時子のことが誰よりも好きで忘れられなかったのに加えて、最後に好きな人のたっての願いを黙って勝手に潰してしまったという罪悪感。そこから、彼女は自分が「幸せになる」(結婚が女の幸せと言われていた時代に育っている)という道を、どうしても選べなかったのではないだろうか。


表に出ているのは、若い男との許されぬ関係に苦しむ人妻の物語。その裏にあったのは、人妻に恋心を抱いてしまった若い女の物語。ある美しい女性を愛し、彼女との蜜月を大切にしたいあまり小さな過ちを犯し、それを一生自分の中に「罪」として抱えて生きた女の物語。これはせつない。
原作を読んでないのでもしかしたら見当違いかもしれないが、映画から私はそのように感じた。


タキが時子を気にしている場面は幾つかある。
・時子に、脚のマッサージを請われて躊躇いながらしている時、時子は「ああ気持ちいい」とタキの手を取って握り、親指で手の甲をさする。タキは遠慮して外そうとする。
・タキが作った雑煮を板倉に出す。「美味いなあ」と板倉。「よかったね」と時子がタキに言うとタキは照れ笑いし、嬉しそうに時子をチラッと見てからニコニコ顔のまま部屋を出ていく。
・板倉への時子の恋愛感情にタキが気付き始めてからのこと。帰ろうとする板倉に平井が「まだいいじゃないか。どうせ待ってる人なんかいないだろう」と言うと、タキが時子の顔をチラリと窺う。
・平井が板倉に見合い話を持ってくる。台所で苛々したように「板倉さん結婚なんて早い。断然早いわ」と何度も言う時子に、「そうですね」と合わせながら心配そうに様子を窺う。
・時子が縁側で板倉の腕をつねったのを偶然目にして、ハッとした顔をする。


これらはあくまで女中として自分の女主人の顔色や振る舞いを気にかけているともとれるが、決定的なのが、時子の親友睦子が登場した場面だ。
時子はまだ帰宅しておらず、睦子にタキがお茶を出す。そこで最近の時子のことをモゴモゴと案ずるタキに、睦子は「ああ、そうか。その板倉さんは時子さんを好きなのね」とズバリと言い、タキは堰を切ったように啜り泣く。それを見て「こういうことだわ。好きになっちゃいけない人を好きになっているのよ」と睦子、タキは「そうなんです」と更に泣く。
「好きになっちゃいけない人を好きになっている」のは自分だ。これは自分のことだ。二人の会話は二重の意味を帯びてくる。
誘導するかのように睦子は更に、女学校時代の時子がいかに綺麗で誰もが好きにならずにいられなかったか、彼女の結婚が決まった時には自殺しかけた人もいたなどという話をし、「厭だったの、あの人が結婚するのが。独占したかったの。わかるでしょ、タキちゃん」と畳み掛け、タキは涙目で深く頷く。
自分は奥様を独占したいのだ、だから苦しいのだ。と、ここでタキは自覚したのではないか。それを見透かすように睦子は、「苦しいわね、あなたも。あたし、よーくわかる」とダメ押し。


美しいお姉さまへの慕情を流麗な筆致で描いた吉屋信子が大人気で、女学校では先輩と後輩の特殊な関係がエスなどと呼ばれて流行っていた時代である。もちろん十代でそうした淡い同性愛感情に嵌ってもそれは一時のことで、早ければ女学生の間に婚約を決め、決まらなくても早晩誰かとお見合い結婚というルートは引かれていた。だから一層、女学校の間の同性同士の密やかな関係は、ファンタジックで濃密なものになった。
タキは東北の貧乏な家の生まれで尋常小学校しか出ていないから、そういう世界を知らずに上京し、奉公先で突然そんな感情の芽生えを体験する。自分としては、敬愛する奥様と板倉さんの前途を心から案じているつもり。だが、そこに字余りのように残ってしまうぼんやりした苦しみ。睦子の言葉が、タキの中のそのモヤモヤに輪郭を与えたのだ。
板倉と密会していた時子が帰宅し、情緒不安定からタキの淹れたお茶が熱過ぎると大仰に叱りつける。恐縮して台所へ走るタキを見送って睦子が言う「可哀想に」ももちろん、「酷く叱られて可哀想」と「好きな相手なのに可哀想」という二重の意味を含んでいる。


ネットで感想を拾って読んでいたら、実はタキは板倉のことが好きだったので、時子と板倉を逢わせたくなかったのだという解釈も見たが、それは違うのではないか。ただ、異性愛前提で見ているとうっかりそう受取ってしまう程度に、わかりにくいところはある。わざとどっちとも言えないように描いているのかもしれない。
タキが板倉のことを気にしているような場面があったかと思って見直してみたが、二人の絡みで印象に残るのは、板倉を紹介された時、同じ東北の出身とわかって一気に距離が縮まるシーンと、最後に板倉が平井邸を出た時に「もし僕が死ぬとしたら、タキちゃんと奥さんを守るためだからね」と言って、「死んじゃいけません!」と叫んだタキを抱きしめるシーンの二つ。どちらにも「色気」は感じられない。


現代パートでも、時子と板倉の接近を回想する老いたタキ(倍賞千恵子)に大甥の健史(妻夫木聡)が、おばあちゃんも板倉さんを好きだったんだ、三角関係だと指摘するが、タキは微塵も表情を変えず「想像力が貧困だね」と退ける。女二人に男一人と言ったら女たちが男を取り合うという図しか思いつかず、女一人に男ともう一人の女が恋をするという想像ができないのを、「想像力が貧困」と言っているのだ。
時子にしても、男を排し女のタキと寄り添うような場面がある。「男って厭ねえ。戦争と仕事の話ばかり」と同意を求めたり、二回り以上も年上のバツ2男と見合いさせられて泣くタキを庇い、縁談話を断ってやったり。
家事や育児や細々とした用事に追われる日常生活を共にする中で、彼女が夫よりタキと心を通い合わせるのは当然だ。板倉が現れなかったらタキとエスの関係になっていてもおかしくない、くらいに思える(もっともそれは男との不倫以上に「許されない」、決して人に知られてはならないものになっただろうけど)。


家父長制の当時、イエは男のものだったが、家は女のものだった。戦争も含めて近代化を急いだ日本社会は男のものだったがゆえに、家という限定的な領域でのみ女と女の関係が築かれた。
現代パートの最後の方でチラリと出てくる有名な絵本『ちいさいおうち』は、のどかな郊外がどんどん都市化、近代化していく経過を描き、その中にぽつんと取り残されたちいさいおうちが、最後にあるべき場所に戻ってきて息を吹き返すという話である。
男/女のメタファーで考えれば、なぜこの絵本が登場しタイトルにも使われているのかよくわかる。男性的な力に支配される経済圏からは漏れ落ちてしまう女性的な親密圏こそが理想郷、というふうに描かれているからだ。またそれゆえに、「子供をいい学校に入れろ」とか「戦時下なのに贅沢だ」とか“男の論理”を内面化している姉と、時子は反りが合わないのだ。
だが実際には、その女性的な親密圏(時子とタキの暮らし)は、男性的な経済圏(時子の夫の経済力とそれを支える男性社会)の恩恵を受けて成立していた。後者が戦争や経済危機で崩壊すれば、前者もなくなってしまう。女の理想郷である「ちいさいおうち」は、それ自体で自立しては存在しない。エンドロールで描かれるように、それはあくまで(タキの)夢の中にしかない。
老いたタキが「わたしね、長生きし過ぎたの」と言って泣くのは、そうした厳しい現実を戦後の60年でまざまざと思い知らされたからではないか。



以上はドラマの感想。以下は少し細かいことなど。
またあちこち拾い読みしているうちに知ったのだが、どうやら原作では、時子は最初の夫に死なれての子連れ再婚で、平井は十歳上、いわゆる夫婦生活はなかったという設定であり、そのことが「不倫」の動機付けの一つとなっているらしい。
映画ではそのあたりがまったく説明されていないため、時子の恋愛は、夫に退屈しているプチブル有閑マダムの気紛れから出たワガママにも見えてしまうのが、少し残念だ。
時子は感受性が鋭く、気性がまっすぐで明るくて、案外頑固で、内に情熱を秘めた女性として描かれている。松たか子の表面張力の高い強めの顔、若々しい声、二の腕や腰の色っぽく女らしい肉付きも、時子が女学生時代の輝きを保持したまま歳を重ね、そこにいるだけで人を魅了してしまう女性であることを示している。しかも読んでいるのは『風とともに去りぬ』だ。そんな女が、仕事と戦争の話ばかりし金儲けで頭が一杯の凡庸な夫に満足できるわけがない。


それだけに、時子の相手の板倉を演じるのが吉岡秀隆なのは、(山田組ということでキャスティングされたのだろうが)やや違和感がある。あまり世間擦れしてないイイ人オーラは出ているが、なんだかモッタリモッサリしていて、時子を夢中にするほどの何かをもっているようには見えない。二人が会話していても妖しい空気が立ち上ってこない。時子がタキを抱きしめて慰めている場面の方がドキドキするくらいだ。
だいたい30前という板倉の設定に、43歳の吉岡はいくら童顔とは言え歳を取り過ぎ。40代の俳優なら大沢たかおの方がキレのある感じで良かったのではないかと思う。でなければもう少し若手俳優向井理とか瑛太とか、(眼鏡が似合うところで)松田龍平とかにしてほしかった。それならちっとはドキドキできる。


配役で言うと、黒木華がおばあさんになったのが倍賞千恵子というのも、しっくり来ない。顔の作りが全然違う。顔立ちだけなら市原悦子が適役だと思うが、それだとあまりに「家政婦は見た」っぽくなるのでまずいか。倍賞千恵子はやはり山田組の常連というのと、声と喋りが嵌っている(戦前パートのナレーションはこの人)ということなのだろう。
黒木華も良かったが私が一番印象に残ったのは、時子の同級生で「男のような人」とタキが述懐する、モダンガール睦子を演じた中島朋子。登場シーンは一回だけだが素晴らしかった。
まず、スタイリッシュな後ろ姿で登場するところが良い。バッサリ首筋で切り揃えた髪にしっかりメーク、肩にタックを取った白いシャツブラウスに黒い大振りのネクタイ、グレーのハイウエストのロングタイト。
口調はやや蓮っ葉ながら頭の良さが滲み出ており、立ち振る舞いはスマートかつエレガント。理知と妖艶が同居している。タキの言葉から瞬時に、板倉と時子の関係、タキの時子への思いを看破し、無防備なタキを楽しそうに言葉責め(?)して弄び、この人、ちょっとSっ気のあるビアンだわ……というところまで匂わせていて、完璧だった(原作ではどうか知りませんが)。


この作品について必ず言及される、戦前の昭和モダンな暮らしの細部は隅々までよくできていて楽しめたが、平井邸の外観はちょっと作り物めいていて屋根瓦の妙にピンクがかった赤が浮いているように感じられた。当時の赤い瓦ってあんな人工的な色があったのだろうか。もうちょっと朱の入ったレンガ色っぽい色彩の方がしっくり来る気がした。
屋内で興味深かったのは子供部屋。和室にステンドグラスの洋窓、襖に貼られたヨットと魚の形のカラフルな色紙、可愛いチェスト、小さな一人掛けのバンブーチェア、元は昔の着物らしい布団の賑やかな柄、枕元に置かれた『コドモノクニ』(表紙はたぶん武井武雄。関連記事/私は『コドモノクニ』から来た)。
それからお台所。木枠が白く塗られた作り付けの食器戸棚、白いタイルの調理台、フルーツ皿、赤いホーローの薬缶(小津映画へのオマージュか)、隅には手動の挽肉機があって、ハイカラな料理も作っていただろうと思わせる。応接間に飾られていたマイセンの人形とマリー・ローランサンの絵は時子の趣味だろう。


そして何より眼福だったのは、時子の着物である。浴衣を除いて17、8枚登場しただろうか。コンサートに着て行った青藤色の牡丹柄の小紋も綺麗だったけれど、それにも増して魅力的なのは普段着。縞や幾何学模様のシックな色合いの織りの着物と帯の組み合わせが、もう全部素敵。今の着物よりモダンで垢抜けた感じすらする。半幅帯をキュッと貝の口に結んだタキのこざっぱりした着こなしも可愛い。着物をじっくり鑑賞するために、再度DVDを時々停止しながら見たのは『細雪』以来。
女中視点の作品としては、『流れる』(成瀬巳喜男、1956)も面白い。こちらは一般家庭ではなく落ち目の芸者置屋で戦後の話だが、着物を始め生活の細部が丁寧に描かれている。


流れる [DVD]

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女中映画としても芸者映画としても傑作。人間関係は「ほっこり」ではない。
食べ物の二つの相に孕まれる滅びの予感 - 『流れる』


ちいさいおうち

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子供の頃飽きるほどページを繰った。最後のところで、「よかったね」という気持ちと、「ここもだんだん街になっていったら、またどっかに引っ越すの?」という不安が交錯したことを思い出す。


小さいおうち (文春文庫)

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読んでみようかしら。