おばあさん犬とうちのムスコと私

愛犬が老衰で死に、その後猫を飼い出した友人がいる。両方を飼った経験のある者同士で、「犬と猫がいかに違うか」という話を時々するが、彼女がある時こんなことを言った。
「この間、◯◯さんが愛犬を連れてうちに来た時に、その犬の顔が人間の顔に見えた」。
その感覚、非常によくわかる。猫と犬を比べると、犬のほうが圧倒的に人間に近い。常に飼い主の動向を窺い人間のヒエラルキーに敏感な犬、まったく関係ない猫。犬が社会的な動物と言われる所以だ。


自分にしても、昔飼っていた猫をどこか人間とかけ離れた不思議な生きものとして見ていたのに比べると、飼い犬(美濃柴オス)に対しては、人間に近い「男の子」という感覚を持っている。まだ2歳で稚気も抜けていないので、ますます人間の男の子っぽい。ムスコと言ってもよい。
この子は、近所のおばあさんが大好きだ。おばあさんと言っても人間ではなく、柴系らしい白い老犬14歳。散歩でその家の裏庭の横をいつも通るので、顔馴染みになった。
ムスコはいつも「ばあちゃんばあちゃん」(実際には「キュインキュイン」としか聞こえない)言いながら、金網に鼻を押しつける。おばあさんは無視することもあれば、トコトコ近づいてきていきなり「るさいっ」(「実際には「ぎゃん!」)と威嚇することもある。老齢のためかなんとなく認知症が入っている感じで、怒りっぽい老婆なのだけど、ムスコはえらく慕っているのだ。


ある時、おばあさんがどういうわけか脱走して、うちに来た。
その日のお昼頃、玄関のガラス戸越しに白く動くものが見えたので何かと思って外に出てみると、なんとおばあさんが狭い庭でうろうろしているではないか。驚いた。
小柄な彼女は、門扉の下の隙間を潜って入ってきた模様。いつも玄関前にいるムスコが、家の前を通りかかったのを見つけて、呼んだのかもしれない。ぴったり寄り添って、ちぎれんばかりにしっぽを振っているムスコ。おばあさんもまんざらでもなさそうな顔。いつの間にそんなに仲良しになったんだ。
‥‥と感心している場合じゃないので、おばあさんを保護しようとしたが、私を警戒して逃げ回る。仕方ないので本宅に知らせに行って、ご家族に来て頂きお引き取り頂いた。どうやら家の中の徘徊だけで止まらず、少しでも戸の隙間があると無理矢理開けて出て行ってしまうらしい。
そのお宅のある区画と我が家の区画を隔てる通りは、朝夕わりと車の行き交いが多いので、徘徊老犬が事故に遭わないとも限らない。「うちの子も小さい時車にぶつかったので、気をつけてあげてくださいね」と言った。


しかしそれからまたも家の人の目を盗んで脱走したおばあさんは、一週間ほどの間に2回もうちの庭にやって来たのである。どうやらうちのムスコがいたくお気に召したようだ。
ムスコはもう大喜びでキュンキュン言いながらおばあさんにすり寄っているが、こちらはあまり喜んでいられない。だってもし事故に遭ったら可哀想だし、万一近所の子どもに噛み付いたりしたらコトだし。
3回めはおうちの人が我が家まで探しにいらっしゃった。「お迎え来ましたよー。おうちに帰ろうね」と言っているそばから、老婆の背中に後ろからのしかかるムスコ。「こらっ、おばあちゃんになんてことするんだ!」と急いで引き離す。人でも犬でも、時に見境つかなくなるものなんだろうか男の子というのは。
そんな話を人間のおばあさんである母に電話で話したら、「それはきっとそのおばあちゃん犬が、よっぽど美人で色っぽかったのよ。人間だってそういう人いるでしょ。タロちゃんもなかなかイケメンだしねぇ」などとのたまった。やめてよ変な想像するの。


それからしばらくの間、おばあさんは厳重に閉じ込められたらしく、散歩の途中でその家の裏庭の横を通る度、ムスコはキョロキョロとおばあさんの姿を探し、金網の下の地面に鼻をつけて、おばあさんのオシッコの残り香を嗅ぎまくっていた。そんなに好きなのかー。‥‥なんか羨ましくなってきたぞおまえたちが。
人間で考えて、老婆に若者が恋をするというのは非常にレアケースである。マルグリット・デュラスでもない限りほとんどあり得ない。犬だって、相手の毛艶とか匂いとかで繁殖可能かどうかを見極めて発情するのではないか。いくら「美人で色っぽかった」と言ったって、14歳の老婆に行くというのは珍しいんじゃないかと思う。いや犬にも老け専があるのだろうか。
って、変な想像しているのはおまえだ。


先日久しぶりに裏庭に出ていたおばあさんは、こちらに気づくと一直線にやってきて、狂喜するムスコと金網越しに鼻をくっつけ合って再会を喜んだ。でもすぐにめんどくさくなったのか、プイと尻を向けて行ってしまった。なかなかの小悪魔っぷりだ(老婆だけど)。キュイーンと今まで聞いたことがないくらい切ない声でおばあさんを呼ぶムスコ。いつまでもそこを動こうとしないムスコを引っ張って家に帰る。
人間で言ったら祖母と孫世代。微笑ましいようなそうでもないような‥‥‥よくわからなくなってきた。人間に見える犬をそのまま人間に見立てて書いてみたが、やはりこちらには計り知れない何かがあるのかもしれない。
しかし私の中で、おばあさんに微妙に嫉妬する気持ちが沸き起こってきたのは確かだ。私には子どもがいないが、もし息子がいて彼女ができたらこんな感情を味わったりしたのだろうか。ムスコを他所の女に取られたくない。
人間ならまだしも、自分が犬に対してこんな気持ちを抱くようになるとは思わなかった。人から見ればさぞ気持ち悪いことであろう。