世界の一つの音

名鉄犬山線徳重駅の踏み切りの、のどかな音が聞こえている。それに、巡航ミサイル・トマホークの轟音がかぶった。
この時間多くの人が、テレビの画像を見、音声を聞いているだろう。私はたまたま踏み切り待ちの車の中で、その戦争の音を聞いている。3月の薄い青空にちぎれ雲が浮かび、下りの名鉄電車が通り過ぎ、その通過音に、またミサイルの轟音が重なった。カーラジオはテレビの音声をそのまま流しているらしい。


頭がくらくらしてくる。 この感覚は、顰蹙を承知で強いて言えば、すぐれたアートのものだと思う。アート作品から受け取る最も本質的な感覚は、目眩のような果てしない困惑の感覚だ。決して納得の感覚ではない。おそらくそれは、論理と感覚が倫理と美意識が出会ってはすれ違う希少な場所だろう。アートに必要とされるのは、たぶんそれだけだと思う。
しかしそれは、ここまで現実に先取りされている。


あるテレビCMを思い出した。たしかどこかのデザイン専門学校のコマーシャルで、白い雲が飛ぶ青空にパンパンと激しく銃を撃つ音がかぶり、「銃を捨てろ、服を着替えろ」とかなんとかいうコピーが出るというものだった。
戦争、あるいは市街戦のイメージ=銃声と日常のイメージ=青空のずれという、ちょっとした新鮮さを感じさせる手口。その程度の気の効いた(?)表現は、もう消費される以前にあっという間に蒸発する。


今ここで聞こえる二つの音の「重なり」は、あまりにも非現実的に響く。しかしどちらも現実なのだ。その二つの現実を、私の頭はにわかに統合できない。
いや現実世界は一つしかないから、二つの現実というのはおかしい。二つの音が一つの世界で鳴っているのだ。
二つのあまりにも離れた場に属しているの音の偶然の「重なり」は、それを「世界の一つの音」として聞くことを迫ってくる。 煤けた田舎町の空を眺めながら、それを私は車の中で聞いている。