初めてピナ・バウシュの舞台を観る

ゲルマン系白人女の威力

ドイツのダンサー、振付家として世界的に有名なピナ・バウシュ率いるヴッパタール舞踏団の新作2004というのを、「彩りの国さいたま芸術劇場」というところへ観に行った。
大宮の手前の与野本町は、何の「彩り」もない殺風景な町で、その地味で単調な住宅街をてくてく歩いていくと、いきなりどどーんと劇場がある。


ピナ・バウシュのダンスについては、
1. シンプルなドレスをまとったパフォーマーが激しく踊る 
2. 個人性、女性性がテーマになっている
‥‥くらいの知識しかない。映画『トーク・トゥ・ハー』で少し観ただけで、今回が実質的な初見。


で、1についてはなんといっても2時間45分という長丁場だったので、嫌というほど堪能したと言える。
単純に感じたことは、民族の血というものは争えないという事実である。ゲルマン系の背の高い骨格のしっかりした女性パフォーマーが持つ、登場しただけであたりを払う迫力と雰囲気。ふわふわしたロングヘアとサテンの長いドレスが、憎たらしいほど似合っている。アジア系やラテン系のダンサーも上手いんだろうけど、ヨーロッパのでかい白人女にはかなわんなという気にさせられる。
その美しい女が、長い髪を振り乱し薄いドレスの裾を翻して、エモーショナルに踊りまくるのであるから、それだけで一瞬目が釘付けになろうというもの。何かダイレクトな身体的な気持ちよさというものが、そこにある。そういう気持ちよさを感じに、みんな来ているのではないかとすら思う。


2については、男性パフォーマーとの踊りの違いは明らかで、独特のシリアスな女性性が表現されていた感じはした。
したんだけど、ずっと観ていて、こういう張り詰めた情念系のスタイルが一つのプロトタイプにも見えた。好きな人は好きなんであろうが、あまりに長丁場で食傷気味。


結局私は、このステージを面白く観られなかった。どころか前半終わる前に、苦痛にすらなってきた。
「彩りの国さいたま」まではるばる来たというのに、いったいどうして。

「そこが変だよ日本人」か

その大きな理由は、ダンスそのものと言うより、テーマとなっていた「日本」の表現である。
パフォーマー日本製品のメーカー名を次々言わせたり、いわゆる大和撫子や外人コンプレックスをからかってみたり、そういうものがダンスの合間にぼんぼん挿入されているのである。まるで「外人から見た日本人」というお笑いのコントでやりそうなネタが続出で、困惑。
ジェンダー絡みのも多いのだが、皮肉やくすぐり程度にしか思えない。森山良子の「ざわわ〜ざわわ〜」って歌を使っていたのも、何かズレてるなあという感じ。


そして客席がその「演芸会」にいちいちうけているのに、更に困惑。だってちっとも面白くない(むしろさむい)のに笑うんだもの。
こういうステージを開放的とか余裕のあるユーモアというふうには、私は受け取れない。
白人がたどたどしく日本語喋ってヘンなことするから、なんとなく可笑しく思えるだけなんでないの?なんで笑う?なぜそこでうける?もう面白くないのに笑うなーと叫び出したいのをこらえていたので、大層疲れた。ユルイ感じで舞台と客席が一体になった空間は、苦手である。


休憩時間に海上さんが「手抜きだね」と言っていた。
「舞台装置が後半変わっていたら、ガラッと違う展開するかもしれないけど」
なるほど。では後半に期待しようとややあって席に戻ったら、変わってないよー舞台が何にも。そして、ダンスの間の「コント」も相変わらず。 うーむ×30。


なんでこういうことをやるのだろう。さっぱりわからない。
日本をテーマにするのはいいけど、こんな底の浅いことやってしまっていいのか?世界のピナ・バウシュが。日本のアホなテレビ番組見過ぎたのではないか? それとも、日本って所詮こんなもんでしょ、こういうのあなた達好きなんでしょ?という、ものすごく屈折した「サービス」か。あるいは、もういろいろやり尽くして頂点は極めたので、後は流してますってことなのか。
流すにしても、もう少しスマートにやって頂きたいもんである。


世界の舞踏界を塗り替えたと言われ、一つの極め方をしてきた人というのは、急に慣れないオチャメ(表層的にポストモダンぽいこと)をやると、コケるということではないだろうか。 それとも、個人的には最盛期より良くなくてもお金が入って客にうければいいのだろうか。
もう引退、いや「廃業」しようとは考えないのだろうか。職業になっているから無理? ですよねすいません。

ピナのファンの集い

客は女性がやや多く、年齢層は20〜60代とマシュー・ボーンの時より幅広い。きっとコムデやイッセイを着た中年女性と若いダンスおたくみたいなのばかりだろうなと思っていたが、そうでもない。オヤジも結構いたりする。ピナの熱狂的ファンで本まで出してる楠田枝里子や、手塚真の姿も。
客でごったがえすホール入り口には、独特の雰囲気が漂っていた。なんというか「私のピナに会いに来たの」みたいな濃ゆい感じ。
そして最後にはスタンディング・オベーションも出る拍手の嵐。拍手しないと怒られそう。でもできない。
そこで私は悟った。これは9割方は「ピナのファンの集い」なのだと。ダンスが好きで、ピナ・バウシュが好きで、ピナが何をしても暖かい拍手を送る、そういう人々の集まりなのだ。最初から脳が感動モードにスイッチングされているのだろう。


終わってブツブツ文句を垂れていたら、「ほんとに面白いものには、そうは出会えないということね」。宮田さんはいつも冷静である。
「もうどれもつまらないってことは最初からわかっているんだから(笑)。観て怒っているのはおかしいんだよ」と海上さん。さいですか。近代芸術のなれの果てに、律儀に付き合い続けるのも大変なことである。
付き合いながら、どこもかしこも末期的症状を呈しているのだなあ、これをすばらしい芸術だと感心したり、楽しむしかない人達って、ほんとお人好しの暇人だよなあ、そういうことを毎回思えばいいのであろうか。
やっぱり「廃業」って食えない芸術家のすることだよなあ、食えてりゃ腐っても鯛で通用する世界なんだよなあ、それを再確認すればいいのであろうか。
おそらくそういうことなのだ。改めて、うんざりする話ではある。


「芸術」に期待しているのではない。しかし高い料金取って偉い人がつまらないことやってたら、私は怒りたい。
つまらないことの確認のために、名古屋から埼玉くんだりまで行きたくない。これはこういうものとしてまあ観ておきましょう勉強のために、といつも言えるほどヒマも金も寛大さもないのだ。
今回は前より良いとか悪いとか手抜きだったとかいった業界的見方もできず、もともとダンスファンでもない者にとって、一回観てダメだったらそれまでである。
もう二度と観に行くことはない、それだけのことである。
アートだってダンスだって同じだと思う。