オリーブ少女と森ガール、または「思想」(トンガリ)から「生活」(まったり)へ

「森ガール」を巡るネット議論

少し前に話題になっていて、とても興味深かった。以下、出てきた順に。


中川大地「「森ガール」にできること〜「少女」から「女子」への変遷の中で」 - ビジスタニュース

議論の発火点で、わりとざっくりまとめた感じの記事。その分、「オリーブ少女」の認識について穴があった(「メルヘンチック」とした)り、男性が女性文化やその周辺現象を語る時に、意識的にせよ無意識にせよ男性から見て望ましい女性像を読み込んでいると見られたりで、早速Twitterで元・オリーブ少女(メルヘンではなくトンガリサブカルのほう)や文化系女子の論者の方々の容赦ない突っ込みが入った。
Togetter - まとめ「森ガール/オリーブ少女/文化系女子」


森ガールの森は森ガールの胸の中に - Parsleyの「添え物は添え物らしく」
この議論についての要点を指摘した記事。的を得ていると思う。この方の森ガール論は、わりと好意的に読まれている様子。リンク先のオリーブ少女と森ガールの比較も興味深い。


私自身、中川大地氏の論にはちょっと違和感を覚えたが(その一部はブコメに書いた)、Parsley氏の方はそうではなかった。
中川氏の記事、というか語り口には、「フレームを作り分類しラベリングして引き出しにしまいたい」という、とても男性的な欲望を感じる。これは70年代生まれの男性ライター、特に宇野常寛とか惑星開発委員会周辺の人にしばしば見られるような気がする。*1
それがうまく嵌れば面白いが、そのフレーム内での対象の位置づけがズレていて、さらに明後日な方向から期待を示されたら、対象周辺にいる人は鬱陶しいなという感じにはなると思う。


これは6年ほど前に、「文化系女子」を巡る男性の言説、目線に、ネットの文化系女子やその周辺の人々が激しく反発したのと少し似た構図に思えた。
前のブログに、そのあたりのことについて記事を書いた(今は現ブログに移動。加筆し『「女」が邪魔をする』(2009、光文社)に収録)ので、参考がてら当時のブックマークと共にリンクしておく。
(文化系)女子の憂鬱
はてなブックマーク - (文化系)女子の憂鬱


一方、同じ70年代生まれでもParsley氏は対象にもっと密着し、丁寧に観察し、分析ではそれら細かい情報を駆使しながら、しかし過剰な意味付けやヘテロ男性目線からの思い入れなどは注意深く除去しているので、ちょうどいい距離感をキープしているようだ。
この「丁寧に見ていて、フレームありき目線でも、いきなり距離を詰めてくるのでもないスタンス」、これを守らないと自意識の強い女性からは疎まれる。


【仕事告知】森ガールについて書きました&反響について - 暁のかたる・しす

中川氏の弁明の記事。御本人には大変申し訳ないのだが、こういう女性への期待や共感を語る語り口の如才なさみたいなものが、やっぱりある種の女性達を苛つかせる可能性はあるかもなぁと思ってしまった。


さて、今さら私などがオリーブ少女と森ガールを比較しなくても、既にいろいろ書かれているしこれからも興味深い論考が上がってくることと思うが、議論を読んでいて思い出したこと、思いついたことがあるのでつらつらと。

オリーブ、フランス、ニューアカ、都市

80年代後半から90年代前半にかけて、私もオリーブ読者であった。
‥‥‥ってちょっと待て。おまいさん今51歳なんだから、その時代は20代の終わりから30代、しかも既婚。世代的に滅茶苦茶ズレてないか。たしかに。でも私にとって当時のオリーブが表現していた感覚は、世代を超えて魅力的なものだった。*2
かつてan・anが10代から30代の女に読まれたように、オリーブも案外広く読まれていたと思う。私より7歳ほど若い男性の友人(別にファッションオタクでも乙女系でもない)もオリーブファンだった。


まず、他のファッション誌にはない空気感のある写真が抜群に良かった。フリッパーズギターの二人をファッションページに登場させた前後からサブカル情報も多くなり、ファッションもラブリーに加えて、トンがったカッコいい要素が入ってきた。
80年代後半の誌面では、フレンチポップな着こなしの代表選手の仏版オリーブ少女として、女優のシャルロット・ゲンズブールジェーン・バーキンセルジュ・ゲンズブールの娘)が紹介されている。メルヘン系ではないボーイッシュな「なまいきシャルロット」(85年の仏映画。14歳のシャルロットがセザール新人女優賞をとった)だ。
オリーブは、「かわいい」と「過激」は同居していい、むしろ表裏一体のものだということを少女達に教えた最初の雑誌だった。地方在住の少女にとっては、岡崎京子の『東京ガールズブラボー』で描かれたような先端都市カルチャーへの強烈な憧れを掻き立てる雑誌でもあったはず。ファッションにもカルチャーへのスタンスにも、少し背伸びした「武装」的ニュアンスが含まれていたように思う。*3
88年にマガジンハウスから「オリーブの本」として出版されている、『オシャレ泥棒』(中森明夫著)という小説がある。手放しの少女讃歌はやや鼻につくが、それを措くと、バブル期の消費活動と「かわいい過激」なオリーブ少女像の関係を見る上で参考になる資料かもしれない。*4


オリーブと併読していたファッション誌はエル・ジャポンとマリ・クレールだった。もううさん臭いほどフランス文化圏で、今思うとちょっと汗が出る。
マリ・クレールには蓮實重彦浅田彰など、当時錚々たるフランス現代思想圏の人々が寄稿していた。一方にハイ・ファッション、一方に現代思想。マリクレみたいな不思議な雑誌が存在していたのは、80年代の消費の加速とニューアカの影響だ。ニューアカブームは現代思想サブカルとファッションを同時に論じるスタイルを流行させた。その重力圏のはずれに、たしかにある時期のオリーブもあったと思う。


遠くにある新しいものや洗練されたものへの好奇心と、闘争的とも言える飽くなき消費欲(情報、モノ共に)と、強い自意識。「メルヘンチック」からトンガリ系まで、オリーブは少女達のこの三つのポイントを刺激し続けてきた。
だが90年代から続く不況によって、次第に一般の人々の消費は押さえられ、遠くにある新しいものや洗練されたものより、前からあって身近で安心できるものへの回帰がじわじわ広がった。「活発な消費」と「背伸び」がなくなると現れるのは、「堅実な生活」と「自然体」だ。エコブーム、手作りブームもそれに拍車をかける。

みづゑ文化圏、北欧、エコ、田舎

その象徴と思えたのが、2001年冬に、ずっと続いた美術雑誌の装いを一変させて現れた『みづゑ』だ。「絵とものづくりの本」として07年に雑誌から書籍に媒体を移すまで、クリエイター志望女子や文化系女子の一部に絶大な人気を誇った。
以下、2004年に書いた記事より抜粋。*5

絵本、手芸、雑貨、イラスト。この中で、どれにもまったく興味がない女の子というのは、少ないのではないだろうか。もうずっと前から女の子ではない私も、今だにこれらのものに激しく心惹かれる時がある。
こうした女の子ワールド(あえて一括りで言うのは、どれも受容者に女子が多いから)は数年前からいろんな雑誌に散見され、書店ではコーナーも作られている。
そこに並んでいるのはインテリア雑貨の本、北欧のおもちゃやテキスタイルの本、東欧の人形アニメの本、「スローライフ」の本(この関連の雑誌も最近多い)、カフェの本などで、まったり系ニュー少女趣味とも言える一大分野を形成している。
[中略]
こういう趣味を全面展開しているのが、別冊美術手帖の季刊『みづゑ』である。
[中略]
つまりアーティストは無理だけど、何かもの作りはやりたい、そっち方面の「クリエイター」になりたいという女の子の潜在的な欲求を引き出し、これなら私もできるかもという気にさせるクラフト系半プロ養成雑誌なのである。
誌面で指導しているアーティストやイラストレーターや雑貨クリエイターの先生は、ほぼ全員30前後とおぼしき女性。読者にとっては憧れの的であろう。素敵な作品を生み出し、仕事はとっても楽しそうで、それでちゃんとお金儲けしていて(たぶん)、きっと普段の生活もすごくおしゃれで‥‥。
そういう人になりたい!と、将来普通の専業になるのは嫌な、でもエリートコースに乗っているのでもない女の子が思うのも無理はない。


創作少女趣味帝国の逆襲


おかんアートにも繋がるクリエイト奨励の『みづゑ』誌面には、どこかオリーブ少女の遺伝子が息づいていたと思う。だが同時に、『暮らしの手帖』の匂いも濃厚にした。何と言っても「みづゑ」の表題の独特なタイポグラフィが「暮らしの手帖」のそれと酷似している(参照:公式サイト)。
私は60年代の『暮らしの手帖』の雰囲気をおぼろげながら記憶している世代だが、この10年の間にタイポや写真の撮り方を含めて『暮らしの手帖』を彷彿とさせる雑誌『Ku:nel』や『天然生活』などが次々出ている。みづゑ文化圏と重なっているこれらの雑誌は、手作りやエコを全面に打ち出した(しかし消費を完全に手放したわけではない)「賢く快適なライフスタイル」を提案するもの。「武装」はほぼ解除されているように見える。


こうした「自然体」文化圏の中でオシャレ度で突出していたのが、オリーブ少女の発展形の一つと思える『LEE』モデルの雅姫だった。以下、再び昔の記事より抜粋。

雅姫を支持する女性達も、中流以上の家庭に育ちセンスも教養もあるタイプが多いという。特に自分のセンスに絶対の自信を持ち、衣食住に渡って何かと細かいこだわりがある。喫茶店でタバコふかしながら女性セブンなんか貪り読んでいるタイプでは、まずない。
昔、雑誌オリーブあたりで育ち、ヨーロッパの郊外のノスタルジックな暮らし(のイメージ)への憧れを持たされ、適度に裕福でプチインテリな環境の中だけで純粋培養されてきた女が、「依存」と「保存」を手に入れるためには、自分と同等以上のクラス(収入、教養、センス共に)の男と結婚して子供を産むことが絶対条件。子供は自分ワールドを完成させるために、今や必需品である。


かつては自分一人がおしゃれであればよかったが、いまや夫、子供、家、庭も隅々まで良い趣味に統一されてなければならない。自分の行く店、住む街も同様だ。友人はどんないい人でもセンスの合わない人、教養がイマイチの人とは付き合えない。センスが似ていることは、同じ「階級」の確認となる。
そのセンスも、頑張ったものではダメ。あくまでさりげなく手作りっぽい味で、なおかつ上質で「半ランク上」。そういうことを、生まれた時から決まっていたかのように、当たり前の顔をしてやれなければ、雅姫にはなれない。


彼女達はおしゃれな絵本の中に住みたいのか? そうかもしれない。
何よりも重要で何よりも優先されるのは、自分の美意識である。自分の半径50メートルが、常に納得のいくこだわりの趣味で満たされていること。それが「創作少女趣味帝国」の幸福の掟である。


こうした匂いに大概の男は弱いことを、彼女達はもちろん熟知している。
「創作少女趣味帝国」にエロスの香りはまったくないが、清潔な家庭の匂いはする。よほど趣味が嵩じた「不思議ちゃん」系にいかない限り、「自然体」志向女は理想の結婚相手だ。
スローフードスローライフは、レトロモダンなヨーロピアン&アジアンテイストと共に、ハイセンスな雑誌で喧伝された。その手の雑誌「Lingkaran」「Ku:nel」「天然生活」などを見ると、彼女達の価値観と美意識がそこにすっぽり収まっていることがわかる。ここに絵本雑誌「Pooka」を加えれば完璧だ。
文系のおしゃれなプチインテリ男などイチコロであろう。


創作少女趣味帝国の逆襲2


森ガールは雅姫ほど家庭志向、ハイセンス志向ではないにしても、実質を求める点では似ているように思う。
中川大地氏とParsley氏の森ガール観で共通しているのは、そのスタイルが単にファッションだけではなく、日常生活の隅々にかなりしっかり根付いていると見ている点だ。一見ふわふわしているように見えて、案外手堅いと。一定の文化系男子にとっては理想的なパートナーにも思えよう。



オリーブ少女の一部はそのままディープなカルチャーおたくとなり、文化系女子を自認した。それとは別に(一部重なる形で)あったと思われる、オリーブ少女→雅姫願望(自然体ステキ志向、家庭願望)orみづゑ文化圏(もの作り、クリエイター志向)→森ガールという流れを見てみた。ここにたぶん90年代のスピリチュアル志向も流れ込んでいる(だから「森」か)。
「フランス(オリーブ)から北欧(森ガール)へ」を言い換えると、「とんがった趣味と貪欲な消費志向から、手作りエコスタイルと地道な消費生活へ」であり、「都市生活への憧れから田園生活への憧れへ」であり、「新しいもの志向から古いものの見直しへ」である。それは90年代から00年代に渡る長い不況でもたらされた節約・省エネ主義や懐古趣味、安定志向、マイペース志向、「外」より「内」への関心などに強く裏打ちされているのではないかと思う。
往年のオリーブ少女はずっと上の全共闘世代の don't trust over 30 なメンタリティ(今では中二病と言われる)をかすかに保持していたが、森ガールは平たく言っておばあちゃん趣味(北欧の)なところがあるからむしろ温故知新。
あのゆったりした隙のありまくりのダサ可愛い重ね着ファッションが、完全武装解除なのか、逆に密かにして新たな武装の印なのか、そこにどれだけセクシュアルな欲望があるのかないのか、もしかしてそういうのを隠蔽するためのおばあちゃん趣味なのかは、まだ私にはよくわからない。


私事だが、美術系予備校、芸術系大学、デザイン専門学校という仕事場の関係上、この30年近く、10代から20代前半の主にアーティスト、クリエイター志向の女の子達を身近に観察してきた。森ガールという言葉が広まる数年以上前から、それに合致しそうな女の子はアート系女子には結構いた(「ハチクロ」のはぐみを先取りな感じで)。昔に比べて、マイペースで無理をしないタイプは増えているように思える。
その志向が恋愛、結婚、子育て生活に向いているのか、そうではない別の関係性(非 - 関係も含めて)や表現に繋がるのか、あるいはどっちも手堅く両立させていくのか、もうしばらく観察してみたい。



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● 設定を弄っていたらブックマークの表示他が消えました。元のエントリーページはこちら→http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20100316/1268667827

*1:私も時々そういうフレームワークをするし、少しでも社会学的観点を取り入れれば避けられないことなので批判の意図はないが、対象が異性の場合はいろいろとセンシティブな問題が起こりやすいので要注意だ。

*2:追記:コメント欄でやりとりするうちに次第に記憶が鮮明になってきたが、82年の創刊直後から時々は見ていた。一番よく見ていたのは80年代半ばから90年代頭くらいだったと思う。バックナンバーがどこかに埋もれているのでいつか発掘せねば。

*3:追記:リセ風やナチュラルやラブリーなお人形ファッションも含めて「武装」なのか?と言われれば、そうだと言いたい。全部メルヘンチックにしか見えなかった男性には理解しにくいだろうけど。

*4:映画『おしゃれ泥棒』(1966、ウィリアム・ワイラー監督、オードリー・ヘップバーン主演)とは関係ない。こっちはおしゃれな泥棒、「オリーブの本」では欲しいおしゃれ服を泥棒。

*5:拙書『アーティスト症候群』(2008、明治書院)に、この記事に加筆したクリエイター系志望男子との比較論や、アート系女子の「自然体」メンタリティについての分析があるので、興味のある方は是非手にとってみて下さい。