奴隷の道徳

自助努力と自己責任

昨日、「アリとキリギリス」でググってみて、出て来た数の多さに驚いた。日本人は「アリとキリギリス」が大好きだった‥‥(お笑いコンビでもいるくらいで)。
「アリとキリギリス」を巡っての日本人論というサイトの中のこのページに、「アリとキリギリス」をはじめとするイソップの寓話は、「奴隷の道徳」であるという話が引用として出て来る。この論の筆者はそれに全面的には賛成してないが、引用されている文章は以下のようなもの。

およそ、寓話は動物などの性格・行為に託して道徳的教訓を与えるところに、他の物語類と異る点があると思われるが、この『イソップ寓話集』のうちに見られる道徳的教訓はギリシア民衆一般の日常の道徳的教訓であり、処世術である。その主眼とするところは、如何にすれば人は安穏に幸福にこの世を過ごせるかということである。そのためには友人に忠実であれとか、御恩を忘れるなとか、運命を諦めよとか、骨惜しみをするなとか、あるいはさらに、長いものには巻かれよとか、他人の愚かさを利用せよとかいうようなことまでも説くのである。アイソポスの寓話を以て「範例による哲学」と称した者もいるが、それはソクラテスプラトンアリストテレスなどの道徳観とは大いに異っている。悪く言えば、やはり奴隷の道徳である。従ってこの寓話集を読むわれわれとしては、そこにわれわれの日常の道徳的規範を求めるべきではなく、むしろギリシア民衆の道徳観や処世術を見ると同時に、凡俗醜悪な人生の活図を見るべきである。それによってわれわれは人間智を鋭く深く広くすることができるであろう。  
イソップ寓話集/岩波文庫/山本光雄訳)


イソップ(ギリシャ語でアイソポス)は、紀元前6世紀頃のギリシャの奴隷である。奴隷と言っても、首と足に太い鎖をつけられて毎日鞭打たれているようなのではなく、金持ち市民の使用人といったところだろう。
そのイソップが書いた物語は、奴隷としての「民衆一般」が生き延びていくにはどうしたらいいかという「道徳的教訓」、「処世術」であり、「凡俗醜悪な人生の活図」とまで(訳者が)言っているところがちょっと驚き。
人に頼らず努力し(アリとキリギリス)、おごり高ぶらず精進し(ウサギとカメ)、負け惜しみを言わず(オオカミと葡萄)、嘘をつかず(羊飼いとオオカミ)、欲は張らず(金の卵)、人と助け合い(アリとハト)、自慢はほどほどにし(カエルの‥‥何だっけ、腹を膨らませ過ぎてパンクしてしまう話)、押してもダメなら引いてみな(北風と太陽)‥‥。
ソクラテスプラトンアリストテレスは、そんな「凡俗」なことに心をわずらわされなくてもいい市民階級だったので、高邁な哲学をものすることができた。
が、イソップはそういう御身分ではなかったので、自分と同様の下々の民衆のための人生訓を考えた。今で言うと、「サラリーマンの処世術」とか「人間関係で失敗しない方法」とかいう感じかもしれない。


同じサイトの別のページでは、「アリとキリギリス」の結末が、戦後日本で80年頃までは「アリがキリギリスに食べ物をやる」というのがまだ結構あったのに対し、それ以降は圧倒的に「食べ物をやらない」ことになっていくという指摘がある(元の話は「やらない」方)。
つまり80年前後から、「福祉」や「慈悲」より、「自助努力」「自己責任」という観点が強まってきたということである。


私(59年生まれ)がイソップを読んだのは60年代だったから、キリギリスはアリにチクリと一言言われながらも、食べ物をもらって退散していた。上のページを読むと、中にはなんとアリがキリギリスに、また夏に楽しい歌を聴かせてくれと大盤振る舞いするバージョンもあったらしい。「教訓」が180度違ってくる。
しかし80年代以降に生まれた子どもの大半は、キリギリスが門前払いされた話を読んでいるのである。その子ども達の中からニートが出現している。遊んでいた者は誰も助けてくれない‥‥ではなく、遊んでいても当面は何とかなってしまう「現実」があったからだろう。

ダメな奴隷と前向きな奴隷

で、いきなり話は『下流社会』(前回の記事参照)に戻るのだが、あそこにある「教訓」は当然、「自助努力」を促し「自己責任」を問うものである。大きく見ればイソップ的だ。『イソップ寓話集』の訳者の解釈を援用するなら、『下流社会』で言われていることは、「奴隷の道徳」ということになろう。
要は、前向きな奴隷になって「如何にすれば人は安穏に幸福にこの世を過ごせるか」を現実的なレベルで考えよ、と言っているのだ。何の奴隷かと言えば、もちろん資本主義消費社会の奴隷に決まっている。とてもわかりやすい話なので、イソップ寓話と同様に幅広くうけたのである。


従って、「下流」と位置づけられて、「こうしちゃいられない、自分らしさなんかにこだわってる場合じゃない」とか「よし、頑張って東大行っちゃる!」とか「子どもは絶対「下流」に行かせない」(そのための何か条とかいう記事が女性週刊誌を賑わせていた)と素直に奮起する人に、とやかく言うことはないと思う。
それから、「自業自得は覚悟の上」と肚を括っている人にとっては、あの本はウザいだけであろうからそれも別にいいのだ。
筆者が「上」から見下ろして書いているスタンスなのがイラつくという意見をたまに見るが、それはしょうがない。モテてる人のモテの秘訣本、いや「これだからあなた方はモテないのです(ダメな奴隷なのです)」本だと思っておけばいい。


腹立たしいのは、明らかに「下流」(ダメな奴隷)ではない人、特に一生安泰な職業に就いていて、自分の趣味などでかなりの消費のできる前向きな奴隷とでも言うべき人が、「世の中、競争や勝ち負けではない」とか「お金がなくても心豊かに暮らせる」とか「人生は素晴らしい」とかホザくことである。
今まで人と競争し勝ってきたから恵まれたポジションを獲得できて、潤沢な消費生活を享受している(それ自体は別に悪くない)者が、安全な立場から何をきいたふうなことをぬかしとんのか、ソクラテスでもないのに。
それも、しかるべき立場の人が本を売るために書いているというなら、それは商売であろうとこちらも思えるし、学校の先生が言うのであれば生徒の方も「建前だな」とスルーできる。
ところが商売でもないのに、あえて言わねばならない立場でもないのに、言いたがる人が必ずいる。一番疑問なのは、どこに向かってそういうカッコをつけたいのかということである。
「どんな仕事にもやりがいはあるものだ」とか「誰かの役に立っていると思えば仕事も楽しい」とかの脳天気な美辞麗句も、その手の前向きな奴隷はよく言う。聞く人が聞いたら怒り心頭に達するであろう。


想像力が欠落しているそういう非「下流」奴隷達は、まとめてマイクロバスに乗せて、辺鄙なところにある工場で携帯電話の部品組み立て作業を過酷なノルマを科せられて朝から晩までやり、トイレ行くにも申告制で給料は手取り十三万宿舎は六畳一間みたいな職場に送り込んでみたらどうかと思う。
前向きな奴隷に使われる奴隷の立場で、やりがいと楽しさと人生の素晴らしさを感じてもらえばいい。
だからここ最近ずっと、スローライフとか心がどうたらこうたらとか沖縄はすばらしいとか、自分の番組でウザったい説教を続けてきた筑紫哲也も、いい加減自分の言葉の説得力のなさに気づくべきだということなのだ。
問題はどういう位置からそういうヨタ話をしているかである。おまえの「勝ち組奴隷としての立場」をはっきりさせてからものを言えや、と言いたい。


同じように「お金じゃない。心だ」とか「人生は素晴らしい」と言ったとしても、年収五千万以上の奴隷の優等生と、年収四百万代(サラリーマンの平均)の普通の奴隷と、年収二百万以下のダメな奴隷とでは、おのずと受け止められ方が違ってくるのである。
奴隷から抜け出すことはもう不可能、つまりアリもキリギリスも虫ケラという点では同じだが、"違い"は厳然としてある。そのことに鈍感な言葉は、増々聞くに堪えないものになっていく。


では、"違い"を示す言葉は「奴隷の道徳」しかないのか。それが問題だ。というわけで、『ミッキーマウスのプロレタリア宣言』でも読んでみよう。