家庭教師

学校系非正規雇用

「交渉成立〜」と言いながら夫が帰ってきたのは、一ヶ月半ほど前のことである。
何の交渉かというと、大学受験生の家庭教師のバイトの報酬金額。ダメもとで希望のバイト料をふっかけてみたところすんなり受け入れられ、週一2時間で3万円という仕事にありついたと。
「一回行って、さ、さんまん〜?!」
私の声は裏返った。そんなに貰って大丈夫なのか。
「くれるって言うんだからいいんだろ。俺以外に三人くらい雇ってるらしいよ、報酬は知らんけど」
「へぇ〜」(口あんぐり)
「おやじが開業医でよ、億ションの2階と6階に住居を所有しとる」
「ひょえぇ」
金持ちのやることにいちいち驚いている私である。


ちなみに大手予備校の一般大学受験コースでは、1コマ(90分)3万円クラスの常勤講師はザラらしい。5、6万の人もいる世界。
常勤でない夫はそこまでとっていない上にコマが少なくなっている現状なので、その家庭教師の口は往復で2時間かけても行くに値する仕事なのである。といっても、目前に迫った今年の入試までの短期バイトだが。
一回目に行った時、お茶受けに出されたベルギーの高級チョコレートを5個お土産に頂いてきた。
「わーい、チョコレートだ」
「おいっ、それ一個500円はするんだからな。一気に食うなよ」
おおそうか。5個で2500円。二週間くらいかけてちびちび食べようと思っていたら、翌々日3個減っていた。
「スナックのねえちゃん」に持って行ったに違いない。隠しておくべきだった。


開業医の一人息子であるA君が受けるのは、愛知県では有名な私大である。それ一本。彼の母親の話では、何が何でもそこに合格させたいと。
「で、受かりそうなの?今年」
「いや、たぶん無理」
「そしたら‥‥、そのバイトあと一年は続けられるかもしれないってことだよね」
「まあそうなれば有り難いけどな」
セコい話ばかりしている自分たちがちょっとイヤになるが、少子化で教育産業全体が斜陽の今、いつクビになるかとヒヤヒヤしながら暮らしているような者はそんなもんである。


正規雇用で学歴を使って潜り込める職場は、予備校か専門学校か大学。そこでの時給は相対的に高い(特に大手予備校)。だから普通のサラリーマン並みの量の仕事があったら、かなりの所得が得られる。
ただ、年中月金9時5時で授業して模試やテキストまで作っていたら(そこまでの人はいないわけだが)、たぶん一年もたずに過労死するだろうとのことである。


大学の非常勤だと、大学やその人の学歴、実績にもよるが、1コマ一万円くらいが相場だろう。
私は残念ながらそれに届かない。それでもまだやっているのは、他のパートで同じ収入を得ようとしたら、労働時間が極端に長くなるからである。長時間労働は嫌である。でも常勤になるほどの才覚はないし、この性格ではなっても勤まらない(とか何とか言い訳している人を「下流」と言うのね世間では)。
コマ単価一万円の人が非常勤契約したとして、授業が通年で週4コマ30週とすると年収120万。大学の場合一カ所で9こも10こもコマを獲得できることはまずないので、あちこち掛け持ちしたり、細かいバイトを拾ったりしてシノいでいる人が多い。
私は数年前、前期だけ週実質16コマ(大学、短大、専門学校、一般向け教室、個人教授)をこなしていた年があったが、非常にしんどかった。
だから、これを読んで「あ、非常勤っておいしいかも」と一瞬思った人、それは間違いです。
「おいしい」と思えるのはごく若いうちだけ。非正規雇用者は、歳をとればとるほどキツくなる。

A君のレール

A君のことに話を戻そう。
彼は、既に21歳だという。父親も母親も地元の一流と言われる大学を出ているのだが、息子は勉強が得意でなかったようで、偏差値の低い高校にしか入れなかった。そこで彼はいじめに遭って登校拒否となり、そのままひきこもりになり、一昨年ようやく予備校に通って大学受験資格を得た。
しかし予備校はあまり肌に合わなかったらしく、今年度は宅浪して日替わりで家庭教師つけられているのである。
たぶんその高校から彼の志望する大学などに入学した生徒は、過去に一人もいないだろうと思う。そもそも大学進学率がとても低い高校である。
しかしA君は、今年受からなければ来年また浪人。とにかくその私大に受からないことには、先がない。そして、ゆくゆくは父親の家業を継がねばならぬ定め。もうそれは、本人も肚を括っているとか。
「どんな感じの子?」と聞いてみると「友達一人おらんようなクラい奴」。まあそれで明るかったらむしろ変だ。


夫が担当しているのは、生物である。他の学科はどうか知らないが、夫によればA君は、「基本的に問題の解き方の要領がわかってない」。
たとえば大きな問題の中に問1、2とあって、問1で前提とされていることを利用すれば、問2で面倒な数値計算などしなくてもいいのに、A君はいちいち馬鹿丁寧に計算し、その途中で計算ミスを犯し、結果答えを間違えるという具合。
夫は口が悪いので「おまえアホか何やっとんだ」とデカい声で罵倒しまくり、広いLDKのちょっと離れたところでお茶とケーキの用意などしている一流大学出のお母さんが、それを大変心配そうに見守っているという図であるらしい(家庭教師が三万円分の仕事をしているかどうか、監視しているのかもしれないが)。


だが夫に言わせると、「ああいう不器用な奴の方が、最終的にはちゃんとものを考えるようになる」。
つまり、馬鹿みたいなところでひっかかっている人は、みんなのペースについていけないので落ちこぼれやすいが、その分一旦納得して着実に自分のものにすると、後々思いがけない底力を発揮する。
それにひきかえ、問題の解き方の要領などをすばやく呑み込んでスイスイ片付けられるような人は、一見頭良さそうだが、あるところまでいくと必ず頭打ちになると。
理系で研究者になるような人には、A君のようなタイプが時々いるとのことである。どんな研究にしても、普通の人が通り過ぎるような馬鹿みたいなことを、徹底的に考え抜く思考力が要求される。
だから「あいつが死ぬ気で頑張りゃ、メがないことはない」。
まあね‥‥それはそうなんだろうが‥‥問題は入試である。そしてA君は研究者ではなく、開業医にならねばならないのである。
開業医と言えば、経営手腕も如才ないコミュニケーション能力も問われるであろう。家庭教師風情が「おまえは研究者タイプだよ」などと内心思っていても、彼はゴールの決まっているレールの上を走っていくだけだ。どこかでそこから外れる可能性はあるにしても、当面は。


どんなレールにも乗れなくて苦労している人からしたら、それは「チクショウ、親が金持ちなばっかりに」な道である。
その金持ちにたかってセコく小金を稼ぐ家庭教師。
その家庭教師に、バイトの日くらいメシを奢れとセコくたかる私。
金持ちをケナすわりには、金持ちがいないと困る生活をしているというこの実態。
全国のフリーターが決起した暁には、私のような者が「中途半端なネズミ犬」(こちら参照)と糾弾されるのであろう。