アート系著作権モンダイ

ミッキーマウスと白雪姫

ドブネズミがネズミに因縁つけた(?)件についての諸反応 - Ohnoblog


正直なことを言えば、私は美術作家をやっていた頃に、「流用」をしたことがある。それもディズニー。しかもそのうち一個はミッキーマウス(!) 
ミッキーの頭に全然違う体(女体とか魚とか犬とか)がくっついている複数のシルエットが並んでいて、真ん中に「Why is your name "Mickey"?」とある、クロスステッチ刺繍の作品だった。パクリとは言えないが堂々と使っていたのは確か。


そういえば、ミッキーマウスのビジュアルをもろにそのまま使い、ミッキーの姿に血糊がかかっているような絵画作品でちょっと有名になった三重県のアーティストが、東京で展覧会を開き『ブルータス』で紹介されて一発で見つけられ、莫大な著作権料を請求されたという話が90年代の初め頃あった。
使い方がかなり悪意(というか批評性?)に満ちていたので、余計にディズニー側の怒りを買ったのであろう。私のミッキーが著作権法違反となるかどうかはスレスレのところだが、発表時は誰からも特に何も言われなかった。


もう一つは、「白雪姫」。
ディズニーアニメの白雪姫は、カチューシャをしてパフスリーブのお姫様ドレスにエプロンをしている。そのビジュアルをそっくりそのまま3D化して、首がいくつもついているキモい白雪姫の石膏像を作った。
半分鏡状の平面作品に記した言葉は「Most beautiful girl gets the best life.」(あれはそういう話じゃないですか? 魔法の鏡が「この世で一番美しい」と断言した白雪姫が、王子様のキスで幸せを掴んだんだから)。
そのジェンダー的なコンセプトは別として、私としてはわりと満足のいく作品だったのだが、搬入状況を見に来たギャラリーのコヅカさんは一目見るなり、
「あーこれまずいよ、見つかったらヤバいよ。まあ名古屋のギャラリーなんかチェックされないだろうけど、パブリックな場所には出せないよこの作品は」
日本のアーティストはあまり気にしてない人が多いが、ディズニーは著作権に滅法厳しいので以後気をつけろと、説教された。


私の作品にも、明確な悪意があった。白雪姫が小人達を誘惑して乱交状態になり白雪姫は惨殺され小人が姫に扮して王子様と結ばれる‥‥と解釈できるような手作り絵本まで作ってしまった。すべてディズニーの白雪姫を使って。
見つかったらタダでは済まなかったと思うが、なにせマイナーな作家だったし売れた白雪姫も一個だけだったので、見過ごされて事なきを得た。
しかし思い出すと私の作品で、何か「ありもの」を参照、流用している作品は多かった。ディズニーの他にもベラスケスの「ラス・メニーナス」、モンドリアンの絵画、さまざまな映画のスチールを流用した。
どこかで見たようなイメージを積極的に使うというのは、80年代から90年代にかけてのアートの一傾向。そうしたことを最も効果的かつ大々的な規模でやった村上隆は「オリジナリティ」に最大の価値を置いているようだが、自分が、表象としてのオリジナリティも手法としてのオリジナリティももはやないという認識の上に登場したポップ・アーティストであったことを忘れたのかもしれない。


著作権を侵害されたと感じたこともあった。
作品をパクられたのではなく、展覧会の企画者に作品写真を無断で著作に掲載されたのである。しかも非常に不備な紹介の仕方(共同制作者の名前が一人抜けている)で、その本を見て私達は怒り心頭に達した。
その人は展覧会を企画した功績などを認められ賞までもらい、本で印税を手にしている。作家に一言断りがあってもいいのではないか?と電話で言ったら、その企画展に参加していた知り合いの作家には伝えたので、他の人にも伝わっていると思ったというお粗末な話。
もっとお粗末だったのが、こちらが電話口で著作権という言葉を言ったとたんすごくビビったくせに、本を出す経緯や意図を文章で回答してほしいと質問書を送ったら、散々待たせたあげく木で鼻をくくったような返事が来た。どうやら待たせている間に周囲に入れ知恵され、謝らないことにしたらしい。
しかもこの事は公(私は共同制作者とアート系フリーペーパーを作っていた)にしないでほしいと。そりゃそんな揉め事で自分の名前が出されたら社会的地位に傷がつくだろうが、こっちが大いに傷つけられたことは何とも思ってないような態度にまた腹が立った。


コヅカさんに相談してみると、
「裁判起こすといろいろ大変だよ。そこまで徹底的にやる覚悟があるなら、内容証明つきで文書送ったら?」
と言われた。一緒にやった仲間は
「もうこんなセコい奴相手にするのはやめよう、時間の無駄だバカらしい」
と言い出し、私もそんな気がしてそれ以上大ゴトにするのはやめにした。
しかしなんかすっきり収まらないので、著作権についてフリーペーパーに書いた(「事件」については触れていない)。面白味のない文章だが、ついでなので下に貼付けておこう。

著作権をめぐる二つの側面‥‥‥制作者の立場から


アーティストにとって著作権の問題は、二つの側面を持っているのではないかと思います。
一つは、音楽、映画などの違法コピーによる海賊版流出で取り沙汰される、著作者の利権問題。
もう一つは、他作品からの引用、盗用といった、制作者側の表現ソースの問題です。
そしてこの二つは、アーティストの立場からするとコインの裏表のような関係であり、一方の権利のみを主張することはできないのではないかという観点から、ここでは主に美術作品を念頭において、二つの問題を徐々に絡めていくかたちで、考えてみたいと思います。


●個人の富と名誉
様々な人が作品に触れ、それによって新しいコミニュケーションが拡がることというのは、広く制作者に共有されている作品制作のモチベーションの一つです。また、様々な媒体を通じて、作品の情報をより多くの人に提供したいと思うのも、制作者としてはごく普通の感情だと思います。
問題なのは、自分の作品(およびその複製)が、営利の絡むかたちで無断使用された場合や、通常は代価を支払って初めて享受できる作品が、断りもなく無償で不特定多数に提供されてしまった場合、あるいは作家名と作品情報が完全に切り離されて使用された場合(盗作もこれに含まれます)です。ケースによって明らかに実害がありますが、作家としての自尊心が傷つけられるということも大きいと思います。
作家が自分の名を作品に付与するのは、作品の個別性や出自を明らかにすると同時に、作家の自尊心をそこに付与しているに等しいのです。著作権問題が名誉毀損等の人権問題とも重なってくるのは、ここのところです。
著作権法とは端的に言って、個人が獲得した「富と名誉」を守るための法律です。単に作家が現実的な不利益を被るのを防ぐだけではなく、「創造する」という行為を尊重する観点からも、その立場は一定限保護されねばならないという近代的な精神が込められていると思います。


パブリックドメイン                           
さてここで、少し角度を変えて考えてみます。
「創造」という響きにはどこか、ゼロから何かを生み出すというニュアンスがあります。では作家は、本当にそのように作品を生み出しているのかと言えば、必ずしもそうとは言えません。
「小説というものを読んだから、私は小説を書き始めた」と金井美恵子も言っているように、「すべての作品は過去の遺産の上に成り立っている」とジョージ・ルーカスも言っているように、作品は大きく見れば、作家個人の創造物であると共に、歴史と社会が生み出した文化的所産です。それは様々な過去の作品や試みやあらゆる事象が、作家という媒体を経由して、その時代に別の新しい形で表出しているものとも言えます。
だから個人がいつまでも独占すべきものではなく、いずれはそれらを歴史や社会の中へ返すこと、つまり「誰もがいつでも自由に使えるようにすること」が賢明と考えられています。このことは今、アメリカでの「著作権延長法」、およびパブリックドメイン(社会の共有財産)を巡る論議の、重要な論点でもあります。


去る7月に放映されたNHKスペシャル『変革の世紀 知は誰のものか?』で詳しくとり上げられていましたが、アメリカでは合衆国憲法発布当初14年間と定められていた著作権保護期間が、この200年の間に何度も延長され、今はなんと95年間にもなっています。
ディズニー社などの大企業は、著作権ビジネスで莫大な収益をあげており、こうした巨大文化産業が経済を活性化させ、国益に貢献しているという理由があるために、政府の方針にまで影響を与えているわけです。


もともと複製(ヴィデオ、DVD、CD化)を前提として制作される映画や音楽において、その複製作業が個人レベルでも容易く行われるようになってからは、インターネット上にも海賊版が大量流出し、その配信サービスを行う会社まで出現しました。
これによる売り上げの落ち込みが、レコード会社や映画会社にとって深刻な問題なのは確かですし、日本を含めた先進諸国ではネット上の取り締まりも含め、今後著作権を強化する方向に動いているようです。
しかしアメリカでは、こんなに長期間、その著作物の権利を保護することに意味はあるのか?ということで「著作権延長法」反対運動が起こっています。95年というのはどう考えても作家の権利や利益を保護しているのではなく、企業を助けているだけとしか思えない、というのがその主な理由です。
また反対する人々は、著作権者に過剰な権利を与えることは、それらの作品の成果を利用して生まれてくるかもしれない、次の創造の芽を潰すことにもなりかねない、とも主張しています。こうした意見には、作家自身耳を傾けるべきものがあるように思います。


知というものは、服や車のように独占所有するものではなく、皆で共有するべきもの。なぜなら、共有されることによって、また新たな知的生産物を生む可能性を孕んでいるからです。だから、ある期間を経たら、すべての作品はパブリックドメインに返されねばならないのです。
では、制作者の権利を守り立場も尊重した上で、それを公共の財産にするには、いったいどのくらいの長さの著作権保護期間が適切なのか。ちなみに日本では、作者の死後50年となっていますが、これは長いのでしょうか、短いのでしょうか。


●知的生産とは     
最後に、表現ソースの問題について触れます。
アートの世界で旧来のオリジナリティという価値が失墜した、という言い方が悪ければ、その意味合いが決定的に変化したのは、80年代半ば頃からだと思います。引用よりももっと確信犯的かつ挑戦的なアプロプリエイション=「流用」「盗用」が、アメリカのシミュレーショニズムの作家達によってもたらされました。
誰でも知っている既成の事物やイメージだけで作品を構成したり、他の作品をそのまま再作品化するような手法は、作品モチーフやイメージや技術に作家のオリジナリティを見出すことは無意味であること、世界がいかに過剰な情報に溢れており、そこではかつてのような素朴な「創作」「創造」はもはや成立しえないことを、象徴的に示していました。
こうした端的な例だけでなく、文化的生産物において、ありとあらゆる過去の作品を表現ソースとして積極的に使用することが一般化したのも、この頃からだと思います。それらが厳しい著作権法を巧みにかいくぐるかたちで行われる中で、高い著作権料が払えない制作者側による「違法行為」も多くなります。
アートの視点から見れば、それらの多くは「盗作」と言うより、「盗用」していること自体を顕示するような行為であり、それによって、もとのイメージや対象を新たな視点で読み替えることを提案するのが目的だったと思います。


と、他人事のように書いていますが、私自身、あと数年から十数年はパブリックにできないヤバい作品を作ったことがあります。しかも「あなたの作品の中であなた自身が完全にゼロから創作したオリジナルモチーフは何か」と尋ねられたらほとんどないと言ってよく、既に見たものの様々な残響が必ずどこかに残っています。
これは、私が意識的にそういうものを使うタイプの作家だから特に、ということはあるかもしれませんが、オリジナリティとか個性といったものをあまり信用しないメンタリティは、80年代半ば以降から発表を始めた作家の多くに共有されていたりします。


人の作品を見て、「これはあの作品からもってきてる」とか「アレとアレとをこんなふうに結び付けたのか」というふうに分析してみると、発見できることがたくさんあります。
新しさを身上としてきた美術では、その現れは過激だったり奇妙だったりしますし、映画や音楽でも過去の作品への美しいオマージュに出会うことは度々あります(下手なリメイクやカバーも同じくらいありますが)。
これは、いろいろなメディアを通じて誰もが多くの文化的生産物に接することができ、またそれらについてのたくさんの情報が手に入る現代だからこその、愉しみでもあります。
唯一性、オリジナリティを至上のものとする考え方は、作家を「個性」の檻に縛り付け、表現を停滞させてしまいます。
同様に、過度に著作権を保護することは、制作する側にとっても受け取る側にとっても、決して幸せなことではないように思います。
著作権の問題は、そのまま個人の「富と名誉」の問題に直結しており、それが不当に傷つけられるのは許されないことですが、最終的に大切なことは「それをどのように使い、何を生み出すか」ということです。


もし自分の作品が元ネタにされて、どこかで思いも寄らなかった新たな試みが生まれるとしたら、それこそ「知的生産」と呼ぶに相応しいもので、作家冥利につきるはずです。
そういうものは自分の死後50年間作って欲しくない、なんて思うアーティストなどいないのではないかと思うのですが、これは楽観的な見方でしょうか。


(初出:2002年、アートレビュー同人誌「蟋蟀蟋蟀」11号)