結婚と家族

寝ている間に男女問題エントリ乱立状態

いつものようにツーテンポくらい遅れて、あちこちにエントリの立った男女問題について、というより男女問題であちこちにエントリの立った状況について考える。


女性の心ない言葉の暴力に殺された男たちという、結婚に関する「またこれか」的煽り記事があり、細かいツッコミを始め、元記事をテンプレにした逆転記事分析=疑義他かなりの言及数で、それらの議論についての記事もこちらとか、それに対してのこちらなど、出るべくして数珠つなぎで出てきているにしても全部読むのが大変である。
何か書いてみようと思ったが、過去ログを見てみたら二つほどあった。
じゃあどうしろと?‥‥「ああ言えばこう言う」という「ごっこ」になっているよという話。
正しいことと重要なこと‥‥若い男女の位相についての、半年前の議論のまとめ(こういう話は反復し過ぎると次第に劣化していくような気がする)。


一方の立場から、過剰にネガティブなことが書かれるという現象は時々あるが、一番つまらないのは、それが単純な男女の対立構図になってしまうことである。
ネガティブに対してポジティブにという言論も、もう一つの対立構図(不幸な結婚/幸福な結婚)の補完のように見える。ネガティブ感情を変に忌避することはないが、そこに耽溺するのは悲劇的ナルシシズムの裏返しだったりするという程度に思っておきたい。
元記事にあった結婚に関しては、ある年数を重ねてくれば、一方的にネガティヴなことも一方的にポジティヴなこともあり得ないのではないかと結婚20年にして思うのだが、未婚の人にしてみると、結婚して10年20年後なんてとんでもない未来であって現実感はないだろう。自分ですら現実感がない。
結婚しないと決めている人は別として、するかしないかもわからない人にとっては、あれこれ結婚にまつわる情報があちこちにあって疲れるという状況かもしれない。


夫とは比較的直裁な会話をするので、ずっと前、結婚について聞いてみたことがあった。
「結婚してみてどうだった?」
「俺の青春を返してくれ」
「ちょっと真面目に」
「どうだったってなあ、そんなことは死ぬ時までわからん」
「そういう答えなの」
「まあよかったんじゃないの、おまえにとっては。そう思っとけよ。もう歳なんだしよ。今更ジタバタするなて」
「私のことじゃなくて‥‥」
「おまえがよければそんでいいだろ。はいはいおしまい」

最小単位の親密圏

さて、女性が経済力を基準に結婚相手を選ぶのがどうこうと、やや批判的に言われる場合がある(私も言ったことがある)。だが一方で、女性にとっては結婚は昔からそういうものだったではないかという見方はできる。
男女の経済格差が結婚を死活問題にしていたことを考えると、男女とも1人で食べていければ結婚などしなくて済むことになるのだろうか。一人暮らしもここまで便利になると、さして結婚の必要性を感じない人も増えているのだろう。独りが気楽。


個人的空間を守って独りで静かに生きるというあり方は、当然尊重されるべきものだと思う。ただ、個の独立性を重んじ、すべてにおいて「個人」を単位として見る考え方が行き渡ったのは、たかだかこの100年くらいのものだということは認識しておく必要がある。
その間に「個人」には、精神的な自立、様々なしがらみからの独立、すべてを自己責任において裁断、独自の意見と行動、かけがえのない個性といったイメージが付与された。「個人」神話は個々の人々を自由にし孤独にもしたが、「自由と孤独を愛する」というイメージこそ、「個人的」でありたい、何ものにも束縛されたくない私達を魅了してきた。


しかしその上でも尚、人が生活基盤を共にする親密圏を作り、そこで日常の苦楽を分かち合うという生き方を捨て去ることは、この先もないだろうと思う。
完全な自由と孤独を享受できる人は、もはや「個人」というより「強者」である。一生に渡って「強者」であり続けるには、人というものは弱過ぎるのではないか。少なくとも、すべての人に「個人」として独立せよ、自立せよと迫れるほど、この社会は生きやすい社会ではない。


社会が個人に対する保障を切り捨てれば捨てるほど、そのリスクは個人にもろに跳ね返ってくる。1人では抱えきれないリスクに、先行き閉ざされるということも起こり得る。
家族はそこで、個人と社会の軋轢、直接のぶつかり合いを緩衝してくれるシェルターの役目を果たすものだ。社会的に弱者であればあるほど、家族という緩衝材の意味は大きい。


家族はこれまで主に、一対の男女を基本単位とした「再生産」(子どもを産み育て社会に送り出す)のための制度として機能するものとされてきた。家族の「族」とは明らかに血縁関係を意味している。
だが子どもが外で虐められて家に帰ってきた時、そこに居場所がなかったら、その家族は血縁関係であってもシェルターの役目を果たしていない。
疲れて仕事から戻ってきて家族から「おかえり」の一言もない家も、妻もしくは夫に一方的な負荷が掛かっている家も、シェルターではない。
そう考えると、家族が血縁関係や法的夫婦で構成されなければならない必要はもはやない。「生活基盤を共にする親密圏」という考えに立てば、家族概念の裾野は広がっていく。
同性カップル、独身者グループ、カップルと独身者、親族関係のない家族の寄り集まり、縁者を持たない人々の共同体、少し離れて暮らす類家族的関係etc。


もちろん家族とは基本的に、「個人の自由」を一定限侵すという意味で、煩わしいものだ。そうやって侵された「自由」が惜しいことが、私にもあった。
だがどこまでも「自由」であったとして、それを行使してこの20年間に、私にどれだけのことがやれただろうか。何かやれたのかもしれないし、やれなかったかもしれない。それは、結婚してどうだったか?という問いと同じくらい、ナンセンスである。


最近、別の質問をした。
「私が先に死んだら、その後どうする?」
「自分が死んだ後のことなんか心配するなよ」
「だって気になるんだもん」
「じゃあ若い女と再婚する」
「それは無理だと思う。私80までは生きるつもりだから。そんときあんたも80」
「俺はそんなに生きれんな」
「じゃあ私未亡人になれるかもね」
「勝手になれや」
「一度なってみたかったんだ未亡人」
「独りぼっちで死ぬのは寂しいぞ」