馬鹿で無知な飼い主と犬

その犬は11年ほど前、夫と私の仲が最悪になり私が家出をした半年くらい後に、夫がもらってきた犬だった。家出と言っても仮住まいにしていた仕事場から時々本宅に帰っており(つまり半別居)、近所の雑種犬に子どもが4匹生まれ、前後して一人暮らしの飼い主が入院したため引き取り手を探しているという話は、夫から聞いていた。
夫は子犬をもらいたがっていた。「好きにすれば」と私は言った。あなたが何を飼おうと、私には関係ないから。私は別に犬に興味はない。そもそも動物を飼うことにほとんど関心がない。
夫は生き物全般が好きで子どもの頃は犬を飼いたかったそうだが、親が許してくれなかったらしい。結婚してマンションから一軒家に引っ越した時、これで犬が飼えると思ったそうだ。でも私がなかなか「うん」と言わなかったので、犬の代わりにミノカサゴメジロやスズムシを飼っていた。


一週間ぶりくらいに本宅に戻ってきた時、家の前の道を夫がのんびりと歩いていた。やけにゆっくり歩いているなと思ってよく見たら、手に細い紐をぶら下げており、紐の先に片手で掴めそうなほどの薄茶色の子犬がいて、よちよちとおぼつかない足取りで夫の後ろを歩いていた。
思わず駆け寄って抱き上げ、「可愛い!」という言葉が口をついて出た。「だろ? 一番顔の可愛いかった奴をもらってきた」。来た日は親兄弟から離されてクンクン鳴き続ける子犬に、スポイトでミルクをやっていたそうだ。「うちに来た時はせいぜい可愛がってやってくれよ」。
そうか。可愛い子犬を囮にしようとしているな。それで帰ってこさせようと。その手には乗らないぞ。
でも犬はほんとうに可愛かった。体がコロコロしてたので、ベタに「コロ」と名付けた。性別はオス。
それから、私の家に帰ってくる頻度は確実に高まった。来ると足にしがみついて離れず、しゃがむと尻の下にもぞもぞと潜り込み、抱いてやると顔中舐め回す(もちろん犬が)。狭い庭先で、犬に話しかけたり躾けをしたりしている夫を見ていて、どっちも憎めないなと思った。
コロが成犬になってしばらくした頃には、私はほとんど本宅で過ごすようになっていた。夫の作戦は成功したのかもしれない。


大人になったコロは、狼みたいに毛がモサモサしていて風体は今いち冴えなかった。ただ顔つき目つきだけが、いつまでも子犬の時と変わらなかった。「パッとしない犬だけど、顔は可愛いね」と口の悪い友人は言った。
見知らぬ人が来ても全然警戒しないでじゃれつく代わり、散歩に出て犬のいる家の前を通る時はなぜか怯えていた。吠えられても顔を背けて早く行こうとリードを引っ張る。向こうから散歩の犬が来ると、しっぽを巻いて私の後ろに隠れたり。気が小さい。
「動物はいつも飢えさせておくべきだ」と夫は言って、大人になってからの餌は一日一回。だからすごく食い意地が張っていた。がっつき過ぎて喉に詰まらせ、吐き出したものを食べ直したりしていた。
夫はかなり厳しく躾けていたが、10年経って人間で言う中高年になっても、どこか落ち着きのない稚気の抜けない犬だった。夫曰く「あいつはほんとに可愛いバカ犬だ」。確かに夫と犬はよく似ていた。
子どものいない私達にとって、コロは子どもに近い存在だった。



今、コロはフィラリアに罹って動物病院に入院している。


先月、なんか元気がない時があったが、その後回復していたのであまり気にしなかった。一週間ほど前、しわがれたような変な声で鳴いた。その翌々日、足腰が立たなくなっていた。へたりこんだまま動かない。体を持ち上げて立たせてみると、数歩ヨロヨロと歩いて頭からどうと倒れてしまった。夫と私はパニックになった。
病院で、もう手遅れに近いと言われた。黄疸も出ており投薬治療しても早晩死ぬだろうと。手術が成功する見込みは2割、弱っているので麻酔のショックで死ぬかもしれないと。「どうしますか」と言われて、返答できなかった。狭心症の注射をしてもらい、とりあえず三日分の薬をもらって病院を出た。車に乗ってから号泣した。
フィラリアは蚊で感染し血管の中で幼虫が育ち、心臓の弁などに何匹も取りついて血液の循環を鈍らせ死に至らしめる病気だということも、毎年蚊のシーズンには薬を飲ませてなければ予防できないということも、私達は知らなかった。犬を飼うに当たっての基本的な知識が欠けていた。大馬鹿者だ。
泣きながらコロに謝った。犬に泣いて謝ったってしかたないんだけれども。コロは私の顔を不思議そうに見ていた。


弱っているのに手術させるのは、可哀相でどうしても気が進まなかった。もう長くないのなら、家で面倒を看てやりたい。夫は考えが決まらないようだった。生き延びる可能性は低いにせよ、どっちがまだマシなのか判断できないと。
結局「おまえがいいならそれでいい」などと言うので、「そんな無責任な言い方ないでしょ」と喧嘩になった。しかし実際のところ、私も夫もどちらがいいのかわからなかったのだ。
コロはぐったりしていたが、食欲だけはまだあった。寝たまま容器から餌を食べるのは大儀なようで、私の手から少しずつ食べていた。オシッコもウンコも立ってできないので、頻繁に様子を見て汚れていたら敷物を取り替えおしぼりで体を拭き、乾いたタオルで擦ってやって、ついでに脚に感覚が戻らないかとマッサージしたり肉球を揉んでやったりした。
これまで、こんなにマメに世話をしたことはない。ほとんど介護老犬だ。仕事がほぼ休みの期間で良かったと思った。


二回目に病院に行った時、「デッドラインかな」と言われた。餌は食べていると言うと、意外な顔をされた。普通は食欲をなくすものらしい。こんな状態でもウチの犬は食い意地だけは張っているんだよなと思ったが、もともと痩せているのに前来た時に比べて体重は減っていた。
その日、夫とまた相談した。彼は「手術させたい」と言った。「このままじゃ死ぬんだから、ダメ元で2割の可能性に賭けよう」。それで私も決心がつき、病院に電話して翌日の朝連れていくことになった。
玄関先に寝かせているコロに、「コロ、明日はがんばるんだよ」と声をかけた。もしかしたら明日死んでしまうかもしれないので、少しでも傍にいて撫でたり話しかけたりしていたい。
コロの兄弟は、一匹は生まれてまもなく死に、後の二匹は田舎の農家にもらわれていったが、三歳の時イノシシに咬み殺されたという。だから残っているのはこの一匹だけだ。「おまえは強運な犬だ。今度も強運をつかめ」と夫は言った。「おまえは俺の唯一の癒しなんだから」(‥‥犬に負けた)。


コロが死んだら、たぶんもう犬は飼わないだろう。私は別に犬に興味はない。そもそも動物を飼うことにほとんど関心がない。ただコロが好きなだけで。
「手遅れだって病院で言われた時、苦しんで死ぬんだったらいっそ安楽死させてやりたいと一瞬思った」と私は夫に言った。「私だったら、しんどい手術なんかしないでこのまま死にたいと思っちゃうかもしれない」。
「死にたいと思うのは人間だけだ。動物は生きることしか考えてない」と夫は言った。
コロはなんだか昨日より顔つきがしっかりしていて、頭を起こして私達の顔を見比べていた。


翌日病院で手術前の検査をすると、尿の色の赤味が薄くなっていた。見た様子も元気になっているのにお医者さんも首を傾げ、虫は心臓の弁に固まって取りついているのではなく、1、2匹が血管中を動いているのかもしれないと言われた。
そうなると、首の脇に穴を開けて鉗子を突っ込んで虫をまとめて取り出す手術はできない。血圧は非常に低かった。いずれにしても手術はとりやめになり、数日入院させて点滴で様子を見ることになった。
夜、見舞いに行ったら、更にしっかりした顔つきになっていて、私達を見ると四肢をもがくように動かした。「安定していて気分は良さそうです。舌の色も良くなっているし、すごい食欲」と言われた。
もしかしたらこのまま直らないか‥‥希望を持たずにはいられないが、投薬治療を続けるとしても、いつ虫が心臓に取りついて急激に容態が悪化するかわからない。そこで手術となっても成功の確率は低く、もし成功したとしても脚の麻痺が元に戻らない可能性もある。
全部、私達の責任だ。でも、できるだけのことをやるしかない。


普通ならそのまま死ぬ犬を生き延びさせたいと思い、あれこれと手を尽くす。それは結局、人間のエゴだろう。ペットを飼うということ自体、エゴと言えばエゴだ。
ただ、私と夫の関係や生活にあの犬は確実に影響を及ぼし、何らかの重要な役割を担ってきたんだろうということは、今回改めて感じた。


他人のペットの話ほど読んでいて退屈なものはないと思うが、家族同然の犬がこちらの不注意で苦しむことになったとわかった時、どれだけ後悔の念に囚われるかを記したくて、長々と書いた。



10年前まではフィラリアで死ぬ犬が多かったが、予防薬ができて激減したという。ただネットで調べてみると、私達と同様わりと無頓着な飼い主もまだいるようだ。犬が若くて元気なら手術で回復する見込みは70%ともあったが、完全に虫を取り出せるとは限らない上、一旦フィラリアに冒された犬は心臓が弱っているので、前ほど元気にはならないことが多いらしい。
私のところは無知なために放っておいて犬に大きな負担をかけてしまったが、もしフィラリア検査も予防もしないで犬を飼っている人がいたら、すぐに実行した方がいい。何年も健康だったから、室内で飼っているから大丈夫ということはない。感染しても症状はすぐには現れず、現れた頃は進行しており、急性だと数日で死ぬこともある。
フィラリアの症状、予防、治療についてのサイトは多いが、こちらこちらがコンパクトにまとまっている。



●追記(2/29)
昨夜見に行ったら、さらに元気になっていた。冷たかった脚にもだいぶん体温が戻り、立つことはできないが弱々しくシッポも振るし「アウーン」という鳴き声も出る。嬉しくて檻の中に半分体を突っ込んで「よかったね、コロ、よかったね」と撫でてたら、また涙が出てきた。この一週間、私はほんとによく泣く。
薬と点滴の御陰だと思う。フィラリアがいても心臓の弁に固まりさえしなければ、薬で騙し騙しなんとか生きられそうだ。「手術しなかったのは大正解でしたね」とお医者さんも言っていた。


「それにしてもすごくよく食べます」。ええ、飼い主に似てるんだと思います。「餌の準備していると早くしてと鳴くし、別の用事で行くと何しに来たって顔で見ます」。すいません、育ちが悪くて。
もしかすると膵臓の消化酵素が充分出てなくて、食べても食べてもあまり栄養が取れないのかもしれないとも言われた。そういう体質で、大食いなのに太らなかったのか。おまえはギャルソネか。


ともかく、まだ安心はできないものの、経過良好につき今日退院となった。今はオシメをして玄関に寝ている。もしずっと立てないようだったら、車椅子を作ってやるつもり。