最近読んだ勇気の出る二冊

特に用がなくても本屋でぶらぶらするのが好きな人へ

だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ

だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ


タイトルからして著者の熱い思いが伝わってくる一冊。
郊外型巨大書店やBOOKOFFの蔭で頑張っている、普通の正しい本屋さん、地元と密着したこだわりの本屋さんを日本全国を駆け回って取材した第一章。なんだか元気が出てきます。
埋もれた傑作本、隠れた珍本奇本(ノンジャンル)を、愛情溢れる独自の視点で次から次へと紹介しまくる第二章。うわぁ、アレも読みたいコレも面白そう。
途中で家にじっとしていられず、本屋に出かけたくなる。‥‥と思ったけど、うちの近所の本屋は雑誌とマンガとベストセラー中心の郊外型だった。


都築響一は『ブルータス』に「珍日本紀行」を連載していた頃から一貫して、メインストリームには上がってこないが独特な光を放つモノ、事象に注目し、足を使って取材し紹介してきた。
個人的に強烈だったのは、やはり『TOKYO STYLE』だ。東京の(主として)一人暮らしの若者の部屋をひたすら撮影し続けたもの。こんなに興味深い情報量の詰まった写真集はなかなかないだろう。「バブル」の一語で語られがちな時代の「別の風景」がここにある。オシャレなインテリア雑誌なんかより数十倍面白い。


この本にあるのも、「別の風景」であり「別の視座」である。
都築響一はゴミの山から宝物を発見する天才だ。忘れ去られているもの、隠れているもの、逆に目の前にあるのに誰も注意を払わないものの輝きを見出し、そこにある強烈なリアリティをキャッチするアンテナと、それらを人に伝えようとする情熱が、書店、本、本を作る人々というジャンルで発揮されている。
アート関連の本もいくつか紹介されている中で、現代美術界への批判的視点が垣間みられる点も、一貫した「軸」を感じさせる。


毎年約7万冊の書籍が出版される出版大国日本。一日に換算すると200冊近い。だが7万冊のうち4割近くは返本になるという。つまり2万冊から3万冊の本が、右から左へと流れていく。出版業界が不況になるはずだ。
そんな中でも、「だれも買わない本は、だれかが買わなきゃならないんだ」。
小田光雄『出版社と書店はいかにして消えていくか』再読 - 海難記を読んで暗澹たる気分になりかけた人は、この本を読んでささやかな希望と勇気をもらいましょう。


「裏昭和」をノスタルジーなしに振り返れ

篦棒な人々ー戦後サブカルチャー偉人伝 (河出文庫 た 24-1)

篦棒な人々ー戦後サブカルチャー偉人伝 (河出文庫 た 24-1)


今まで読まなかったことを悔いた(単行本は98年に出ている)。そして、読んでいてなんか「変な血」がざわめき出した。
都築響一と並んで、「俗」で「奇」なるものへの感受性に飛び抜けた竹熊健太郎の、刊行までに十年もの歳月を要した渾身のインタビュー集。


「ケタ外れの偉人」であるインタビューイは4人。
その業界では知らぬ者のいない東大卒の「呼び屋」であり「出版プロデューサー」であり、「虚業家」を名乗る康芳夫の"怪人ぶり"に驚嘆した。
映画看板から始まり戦後は怪獣画で一世を風靡し、少年少女雑誌からSM雑誌まで膨大な挿絵を手掛けた石原豪人の"無頼ぶり"に笑い転げた。
月光仮面』の原作者にして歌謡ヒット曲の作詞家で、後に「民族派右翼」となり「生涯助っ人」を自認する川内康範の"愚直ぶり"に唖然とした。
だが私が一番惹きつけられ、おそらく竹熊健太郎がもっとも"苦労"した相手が、「全裸の超・前衛芸術家」ダダカンこと糸井貫二である。


1970年4月27日、大阪万博のシンボルである岡本太郎の「太陽の塔」を前日から占拠していた、赤軍派を名乗る赤ヘル覆面男がいた。この男はダダカンではない。その緊張高まる「太陽の塔」の下を全裸で駆け抜けるという珍奇な「ハプニング」(突発的アートパフォーマンスを昔はそう呼んでいた)を行い、すぐ警察に取り押さえられたちょっと"間抜け"な男がその人である。反・万博の赤軍派とは何の関係もなかった。


ダダカンこと糸井貫二については、大昔、名古屋の古参アーティスト(この本にも出てくる水上旬氏)からちらっと話を聞いたことがあった。その時は正直、60年代のアンダーグラウンドの前衛運動に思い入れのあった人だけがかろうじて知っているような自称ダダイストだろう、くらいの興味しかなかったのだが、『日本・現代・美術』椹木野衣 著/新潮社/1998)では、「裸のテロリストたち」の章の冒頭でこの本から紹介されていた。欧米の同時代のアーティストにはない、貧乏臭さ、洗練されなさ、剥き出し感が、日本の前衛芸術の本質的な姿として椹木野衣の関心を強く引いたと思われる。


竹熊健太郎は隠遁生活をしていると噂されるダダカンに手紙を書き、きっぱり取材拒否されるも何度かやりとりをし、ついに「取材ではなくプライベートな訪問」を装って、仙台のダダカン宅を訪れる。そして‥‥‥。私はなんとも言えない感動(と言っては安直過ぎるが)で震えました。
ネットの「ウヨだサヨだ」といった論議がとても小さいものに思えてくる。そんなところを遥かに凌駕していた「篦棒な人々」。そして、竹熊健太郎の彼らへの押さえきれない好奇心と真摯な態度、取材に賭ける並々ならぬ情熱、というか尊敬すべき粘着ぶりに頭が下がりました。


余談。
休日の昼過ぎに起き出して「ああ腹減った」と夕べの残り物で遅過ぎる朝メシを食べていた夫が、食卓に置いてあったこの本を「なんだこれは」と手に取り、そのまま箸を置いて20分余り読みふけっていた。
たぶん彼も「変な血」がちょっとざわめいたのだ。