お前のその言葉は、お前の欲望を裏切っていないか

一昨日、横浜国大人間教育科学部のマルチメディア文化課程というところで講義をしてきた。「メディア基礎論」という主に一年生対象の授業。複数の教官が持ち回りで担当しており、そのうちの一人の清田さん(前、名古屋芸大にいらしてそれ以外でも交流がある)から、「アーティスト廃業」の立場から何か喋って下さいという話で。
マルチメディア文化課程(以下マルチ)では演劇や映像など実作の授業もあり、マスコミやサブカル、あるいはアート周辺に関わりたいという願望を漠然と抱いている学生が多いらしいということは聞いていた。


つまり、いわゆる「アーティスト症候群」みたいなものが潜在的にあるので、それに一発ガツンとかませばいいんだろうと思い、「アート・イズ・デッド〜資本主義社会のアートの変質と延命」というレジュメ(タイトルは伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド』のパクリ)を作ったのだが、前日行ってから詳しく話を訊くとちょっと事情が違うようだったので焦った。


清田さんによれば、マルチに来た学生というのは、経営や経済の学生のようなエリートコースも普通のサラリーマンを目指すというルートからも少し外れた志向をもつ学生が多く、大学卒業後の進路については、いろいろモヤモヤしたものを抱えている。
だが、そこをつつくと一部から「普通で何がいけないのか?」との反発が返ってくる。さっさと就職して安定を求めて何がいけないのか、ほっといてくれ。怒りさえ籠っているそうだ。
それに対して「本当にそう思ってるの? それ、無理矢理自己規定してるんじゃないの?」と問いかけたいと。「お前のその言葉は、お前の欲望を裏切っていないか」ということだ。
つまりある程度のレベルの偏差値の大学に入ったのだが進路については葛藤のある一年生に、あちこちから揺さぶりをかけてますます煩悶させる授業ということらしい。


なるほど。その狙いに賛同するのにやぶさかではないが、同じ揺さぶりをかけるんでもベクトルがやや違った。
私の今の立場からすると「普通なんてつまんないよ。ちょっと外れたほうがいいよ。みんなどんどんアート方面にいけば?」という素朴なことは言えない。そもそも「普通/普通でない」という対立項からして吟味する必要があるし、アートの歴史的経緯や現状(ここにポイントを置くつもりだった)についても触れないわけにはいかない。丁寧に説明していたら、とても90分で収まりそうにない。
そこで急遽、アートを分析的批判的に解読するのに重点を置くのではなく、アーティストを目指した時に何を考えていたのか、なぜ「普通」のルートは嫌だったのか、個人史を中心に話すことになった。


制作活動を始めた頃の私にあったのは、大量に流れてくる視覚情報を異化したいという気持ちだった。アートは異化作用そのものであり、そこにこそ自分達の「自由」があると思っていた。もっとも「自由」というのは怖いものだ。でも怖いからスリルがある‥‥。
実に青臭い発想である。だが青臭いことを諦めきれず、非常勤のバイトで食いつなぎながら40過ぎまでやってしまったのだから仕方がない。今はそれを続けることに意味は見出せなくなったけれども、アートを通じて「普通」の外にあるものをかい間見ることはできた。
というような話をする。
ただ、アートの宣伝活動に来たのではないので、デュシャン村上隆を引いて現代アートについて解説した箇所は、かなり振り幅の大きい両義的な話になった。特別興味のある人を除いて、芸術大学の大学院生くらいでないと難しかったかもしれない。


後半、清田さんから「平凡や普通でいいという反発」は「せっかく(やりたいことを)諦めたのに、なぜ掘り返すようなことをするんだ」という気持ちからきているのではないかとの問いが、改めてあった。
大学を出てすぐに落ち着き先を決めなくても、しばらくはいろいろなことをやってみたっていいわけで、そういう選択が不可能であるかのような思い込みはどうかということだ。早い話、世間一般で言う安定してそうな「普通」の道なんか安易に信用するなと。
前日の学生を交えた飲み会でもその話が出て、「それ、社会的な立場や報酬が保証された人から言われてもムカつくわw」と嫌みを言ったのだが、清田さんが学生達にいろんな意味で期待しているのはわかった。


授業後研究室に引き上げたら、学生が7、8人やって来て2時間半ほど彼らと話をした。「内気な学生の多いマルチ」ではわりと珍しいことだったようだが、何にしても食いついてくるというのはいいことだ。食いつかれてナンボの身だからこういうのは嬉しい。
しかし、二十歳かそこらで一生の進路を決めなければならないといった外圧は、どこにでも相変わらずあるのかなと思った。外圧と言えば、同世代の同調圧力も強いと聞いた。


86人の感想ペーパーを帰りの新幹線の中で読み返した。「とてつもなく考えさせられた」「聞きたい言葉があった」という評価がある一方で、「アーティストは自由で、普通はつまらないと言っているようで不快」という反発も一部であった(アート、アーティスト批判(自己批判)の言葉はうまく伝わらなかったようだ)。
全体として、「普通のルートに乗っかるのは嫌だという意識はあるが、やりたいことがあってもリスクが高いという気持ちから踏み出せない」(要約)という感想が目についた。煩悶している。
「諦めて順応し、大した努力もせず常識に流されて、自分の安心のために普通であることが一番だと意地を張っているのはつまらない」(要約)。良い意見。


「やりたいことに賭けてみろ」と言う方は、賭けた結果を保証してはくれない。だから言われた方は、あらゆる言い訳を用意することができる。やってみたいけどリスクが。別に突出したくない。平凡で構わない。「普通」の中に幸せがある。人それぞれだから。
よく耳にする文句だが、本当に自分で出した解答なのだろうかと思う。そもそも何もしないうちからそう決めてモヤモヤをすっきり解消できれば、こんな簡単なことはない。
だから「お前のその言葉は、お前の欲望を裏切っていないか」は、他人からの問いかけではないのだ。他人の問いかけなら耳を塞げば済むが、それは自分の内でかすかに響いている自分の言葉だ。