フィギュアを見て「技術か芸術か」について考えた

オリンピックのフィギュア、堪能させて頂きました。この時期仕事が休みなので、家でリアルタイム観戦できるのが有り難い。これからまたNHKの特番で浅田真央キム・ヨナの演技を見る。いったい何度目だ。何度見てもいいものだ。明日のエキシビションもとっても楽しみ。


ところで何かと話題の採点の話。採点方式によって、頑張って難易度の高い技を成功させている選手より、そこは手堅い線でやって表現で勝負している選手の方が高得点になっているらしく‥‥。
「感動できるんだったら何でもいいよ。美しいものが見たいだけ」的な無責任かつ大雑把な素人大衆目線で見ている私のような観客にとっては、迂闊に手出しのできない話題である。
オリンピックのフィギュアはバレエなどとは異なるスポーツ競技だから、技術点がもっと重要視されるべきだという話を聞けば、「そういうものかなぁ」と思うし。
見る側は自分の好みで点数には換算できない感動を味わえばいいんだよと言われれば、「そうだよなぁ」と思うし。


タイムを、着順を、重量を、高さを、距離を、ゲームの獲得点数を争う各種スポーツ競技は、それら「数値」によって自動的に順位が決まる。フィギュアで言えば、ジャンプの高さや回転数や早さに当たるものだ。その基準を誰もが同じレベルで認識できるからこそ、スポーツ競技はここまで普及した。
姿勢の美しさや技も採点対象になる競技はスキーのフリースタイル、ジャンプ、スノーボード(夏期だと飛び込み)などがあるが、明確に技術面と芸術面を分けて採点されるのは、冬期はフィギュアスケートアイスダンス、夏期は女子の床(体操)とシンクロナイズドスイミングくらいだろうか。
これらには音楽がついて舞踊的要素をもつという共通点がある。ダンス、音楽という芸術ジャンルが深く関与している上に、フィギュアとアイスダンスは衣装というファッション要素もあるから、ますますアーティスティックな側面がクローズアップされてくる。*1


こうした、競技であり尚かつまた芸術でもあるフィギュアの宿命が、「技術力最優先か表現力重視か」という問題を浮上させるようだ。
そんな中で、「浅田真央トリプルアクセルが跳べる高い技術力を持っていて、キム・ヨナは芸術性や表現力で勝負」といった対比の仕方も出てくる。「ライサチェックの滑りは確かに圧倒的だったけど、プルシェンコは4回転跳んだでしょ」とか。


そういう言葉を聞く度に、「そもそも技術と芸術って、別々のものなのか?」と思ってしまいます。
別に、高い技術は芸術的と言われたりするし、芸術性も技術力に支えられていますよね、技術面と芸術面は互いに補い合っていて、プル様も真央ちゃんも技と演技どちらかが劣っているわけでは全然なくてね‥‥‥ということを言いたいのではない。
技術=芸術、芸術=技術という見方はないのかな、ということだ。


芸術、アート(art)の語源はラテン語のアルス(ars)で、技術、才能などを意味したが、さらにその語源を遡るとギリシャ語のテクネ(techne)に行き着く。テクニック、つまり「技術」の元となった言葉は、「芸術」を意味していた。ちなみに芸術家(artist)と職人(artisan)の出自も同じ。
テクネには、「内在する原理を正しく理解した上で何かを為す(ものを作る)能力」と「金細工師がもっている実用以上の装飾技術、能力」という意味があった。
芸術が「内面の表出」とか「価値観の変革」といったいささか文学的哲学的な観点で語られるようになったのは近代以降であって、芸術にはもともと、「物事の原理の理解」と「実用という目的を持たない技術」という二つの意味があったのだ。


これはなかなか核心を突いた定義である。アーティストとは、それぞれのジャンルの原理や法則を理解した上で、実用とは直接結びつかない方法や技術でもって、何かを作り出している人々。確かにその通りじゃないですか?
作曲家は音や響きの法則を駆使して音楽を生み出すのだし、画家は平面と色と形の原理を知り尽くした上で絵を描く。ダンサーは身体の法則を熟知して跳んだり跳ねたりする。それはまったく実用的ではない、具体的な目的を持たない動き、技である。それが鑑賞の対象となる。
古典的なアーティストだけではない。ヘア&メイキャップ・アーティストと呼ばれる人々だって、人間の髪や骨格、皮膚の原理を正しく理解した上で、実用とは言えない技をそこに施す。すばらしいと言われるのかケッタイだと思われるのかは、また別の話だ。


さて、それをフィギュアスケートで考えてみよう。
プルシェンコの四回転ジャンプや浅田のトリプルアクセルといった高度な技は言うに及ばず、技から次の技への繋ぎをスムースに遂行すること、音楽を深く解釈してそれに合った動きを表現すること、全体の構成や流れを生かした見せ場を作ること、つまりは芸術性や表現力として評価される要素も含めて、選手の一挙手一投足のすべてを支えているのは、「スケーティングに内在する原理を正しく理解した上での、何ら目的を持たない実用とはかけ離れた技術」である。
つまり、テクネの集積であり、芸術である。
そうなりますよね。


芸術性とか表現力といったものは、技術を超えたところ、技術とは別次元に、ふわふわと存在しているものではない。なぜそれがすばらしく見えるのか、心に直接訴えてくるのか、打ちのめされるような感じを与えられるのか‥‥を、対象に密着して丁寧に分析していくと、それらはきちんと技術の問題として捉えることができる。
たとえ表現者がどんなに強く熱いマグマのように狂おしい表現意欲を抱えていても、「ああ‥‥これこそ芸術だな」と人に思わせるのには相応の技術が必要である。そこで、どれだけの技術がどのように組み立てられているか、それによってどのような効果を発揮しているか、様々な要素に分解して検証することは可能である。
もちろん派手な超絶技巧や、いかにも血と汗の訓練の賜物に見えるものだけが、技術ではない。まるでテクニックを投げ捨てたかに見える表現(こういう時によくピカソが例に出されるが)においても、素人目には正統派の巧さに見えないという形で技術が使われている。これはすべての表現ジャンルで言えることである。


その技術を、表現者は悪魔の如く周到かつ入念に使いこなす。まるで技術を超えた何かすごいものが、今まさにそこに立ち現れているかのように、技術を駆使して表現する。それがあまりにも巧みに組み立てられているので、見る者は「技術がすごい」以前に、「芸術的だ」という感興を抱くのである。
技術は「内在する原理の理解」という思索とセットになって、その表現のありとあらゆるところに遍在している。私たちが「芸術だ」と思っているものの正体は、つきつめていくと技術に還元される。


ということは? フィギュアで技術力と芸術性を分けて採点する必要はないってことですか? いやいやそんなこと、私ごときが言えるわけがないじゃないですか。フィギュアの技術点は身体能力の高さを問うもの。スポーツ競技大会でそれを問わないわけにはいかない。
そう、身体能力の高さでもって技を競い合っているものは、すべてスポーツ競技であって芸術ではない。芸術的な技はあっても芸術ではない。‥‥と、あなたは言いたくなったかもしれない。だが私は、フィギュアをスポーツ競技ではないとは言っていない。オリンピック種目なんだから、そこではスポーツ競技の一つに決まっている。
私の言いたいのは、技術と芸術を分けて考えなくてもいいんじゃない?ということである。


なんかおかしいですか?

*1:「芸術は採点なんかできないのでは?」という疑問は、タイムや高さやゲーム得点など数値で一目瞭然に順位がつくスポーツ競技を基準に考えているからだ。ローザンヌ国際バレエコンクールベネチアビエンナーレから芸大入試に至るまで、世の中にはたくさんの芸術系コンテストがあって、審査され優劣がつけられている。その採点基準は目の肥えた専門家が決めているから、誰にでもすぐさま理解できるとは限らないというだけである。