アートの幻想 --- 4. 受動性のアート

1. 資本主義カルチャーとしてのアート
2. 消費としての芸術体験
3. 忘却による反復

4. 受動性のアート

今「アート活動を行う」とは、アートを更新していくことではない。それはもうあらかじめ、すべてを受容し差異化していくアートの中に書き込まれている。 そこはただのブラックホールである。
そういうものが、制度と市場で保護され、まだなにかあるかのような幻想を売っている。さまざまな媒体と傾向の作品がそれぞれ正当性を主張し合い、覇権争いをしている。その力関係=政治を決めるのは批評言説だが、それももうかつてのような効力を持たず、ただ多様性を追認していくのみである。


それでもアートがまだ何か「意味」を持つとしたら、この社会で誰も信じて疑わない価値観である「個人の幸福」の意味を書き換え、それによって世界を変えようと愚直に思考することだ。
この世界での「個人の幸福」とは、最終的には富と社会的地位を得ることである。それは違うと言うのなら、毎日食べるのにも事欠く赤貧で周りの人に蔑まれている生活を想像してみてほしい。それは、考えられる限りの最低の状態だ。私がもしその状態に陥りそこから抜け出す望みはないと知ったら、生きる意欲を完全に失うだろう。
イメージできる最低の不幸の裏返しである富と社会的地位の獲得は、望みうる最高の幸福としていつの世も世俗的欲望の対象となってきた。このビジョンは、個人の経済的な事情、社会的な位相が全てに影響していくこの社会だからリアリティを持つのだ。
そういった観念からもっとも自由なはずのアーティストと呼ばれる人でさえ --- アーティストを世俗の欲望から無縁な人間としてだけ描くのは無論間違っている --- そういうベクトルの欲望には逆らえないとなれば、それはこの社会を維持していく普遍的価値観と言ってよい。
そして、普遍的価値観とされるものを疑いそれを転倒させることがクリエイティブなことだとしたら、それこそアートがアートを超えることとして、最後に為すべきことである。


しかし、それも残念ながらほとんど不可能だ。アートという「名」と制度に守られ、マーケットに支配されている以上、そのメッセージが認められ作品価格が高騰し評価されればされるほど、作品は自らが否定している価値観を受け入れざるを得なくなるからだ。
そんな冗談みたいなものをクリエイティブだといくら言ったところで、誰が信じるだろうか。それはデュシャンの『泉』を「観賞」するくらい馬鹿げたことだ。


こうあるべきだと思う、あるいはこうもありうるのではないかと思う何かを、アートの名の下に差し出し承認されようとすること。それは結局、アートという空虚との関係をあくまで「可能性」として維持しようとする、受動的客体的行為である。
そこでの試みがかつての前衛のような批判理論を越えて、リアルな生を見い出していこうとしているとしても、その行為は既成のアートのポジションを更に確固としたものにしていくという点において、つまりアートの位相を保証している基本的構造に何ら影響を及ぼさない点において、常に保守的で規範的なものである。
アートというジャンルそれ自体は、自律した問いを発しているわけではない。なぜならアートも、この社会の視線の欲望に応え、差異を生産することによってのみ自己の存在基盤を確認するしかないという受動性を帯びているからだ。
受動的であるとは、精神分析学で言うところによれば「女」であるということになる。「女」は常に捏造されるものである。それについては、またいつか稿を改めて考えてみたい。



私は、アートは娯楽を越えたものだと思って作品を作ってきた。しかしこのように考察してみると、そこには矛盾と自己欺瞞があった。これまで様々な場で他ジャンルからのアート批判に対し、私はアートを擁護し自己保全してきたが、それは単に判断を先送りするものでしかなかったと思う。
それではこの際開き直り、今までの欺瞞的な態度を翻し、自分の世俗的欲望を全肯定して、高級娯楽提供者としての報酬を得られるように努力するべきだろうか。しかしそのプロセスがどんなに美化されその作品がどれほどの共感を得たとしても、実質的に生まれるのはアーティスト個人の幸福と、それで潤ったアート界の幸福でしかないという結果も、既に予想がついている。


それを言うなら、あらゆる仕事が多かれ少なかれそうなるではないかと言われるだろう。確かにそうだ。たとえば私はアート、デザイン関係の学校の仕事を主な収入源にしているから、そういう意味ではこの先もこの世界に依存して食べている存在ということになる。私にできることは、せめてそこでアート信仰を再生産しないようにすることくらいだ。一方私は作品では食べていない。ということは、制作は放棄しようと思えばいつでも放棄できるわけだ。
何か創作したくなれば、純粋に自分の欲求を満たすために作ればいいし、誰かから欲しいと言われればあげればいい。あるいは何かと交換してもらえばいい。そこに利潤や社会的評価を得ようという欲望は生まれない。家庭菜園でできたトマトと枝豆を交換するのと同じだ。与える、分かち合うということで自分も他者も充足するのだから。


子どもの造形活動とは、まさにそれを行う子ども自身にとって”アートでないがゆえに”クリエイティブであり、満ち足りた経験である。そしてアーティストを目指さない人の創作は、それがいかに既成のアートのイメージから自由でなかろうと、その人の精神活動において自律的な体験の積み重ねとなっていく。
そこにはアートとは何かという強迫的な問いも受動性も、社会的な作家意識も資本主義的欲望も存在しない。ただ自分の存在を表出したいという強い欲求と、未知な体験への驚きがあるのみだ。
クリエイト、作ることの根源的な意味とは、物としての到達地点ではなく、どこに行き着くかわからないあるプロセスを、ただ一人で能動的に生きるということにおいて見い出される。私はそうしたことを、制作活動以外の場で彼らから学んだ。
そのようにしてあった「作ること」が、どういった過程を経てアートなるものに回収されていくのか。そこで経験されたことはどのように消費されていくのか。その際限ない消費が私達にもたらすものは何か。それをアートの「外」から考察し言語化すること。
その場所に、私は立ち直すことにした。*1
(2003年2月) 

*1:私が制作から全面的に手を引くことにした理由は、拙書『アーティスト症候群』の中で更に詳しく述べたので、興味のある方は是非そちらを。