ハリウッド映画を模倣するハリウッド映画『ナイト&デイ』

午前中に仕事が終わった先日、友人との待ち合わせまでの三時間ほどを潰そうと映画館に入り、「トム・クルーズキャメロン・ディアス共演のスタイリッシュなスパイアクション」ということしか知らなかった『ナイト&デイ』を観た。個人的にはこういう機会でもなければ態々見にはいかない種類の映画。笑う。

(C) 2010 TWENTIETH CENTURY FOX


かつてナンシー関田村正和のクサい演技を評して「田村正和田村正和を自己模倣し始めた」との名言を吐いたが、この映画ではトム・クルーズトム・クルーズを、キャメロン・ディアスキャメロン・ディアスを自己模倣している。
ミッション:インポッシブル』に代表されるとことん行動的でタフで、しかしミステリアスな陰の見えるナイスガイと、『メリーに首ったけ』その他の主演作でのちょっとドジだが惚れっぽいミーハー娘。それらを中年の二人が楽しそうに演じているのだが、特に強くて爽やかな不死身のヒーローをセルフパロディすれすれのかなり変な感じでやっているトム・クルーズが面白い。キメの台詞の後で真っ白な歯を輝かせて笑う、その白い歯さえいかがわしく見える。
その他の役柄も皆ストックキャラクターで、「実はこの人物は‥‥」という"意外性"まで典型的なパターンに嵌っており、そこから外れた者は一人もいない。全部スタイルを踏襲。そういう意味で「スタイリッシュ」だ。


ストーリー(と呼んでいいのだろうかあれは)も同様で、アクション、サスペンス映画からロマンチック・コメディ、アドベンチャー、ヒューマンドラマまで、ハリウッド映画によるハリウッド映画(についての記憶)の自己模倣が豊富に見られる。というか、ほとんどそれだけで出来上がっているように見える。
二回も偶然(?)ぶつかって生まれる恋心、危機一発で脱出した背後で爆発する旅客機、薬で眠らされるヒロイン、黒尽くめの怪しい男達による拉致、"スリリング"なカーチェイスと銃撃戦、青い海から仕留めたばかりの魚片手に上がってくるマッチョなイケメン、空爆から逃げ惑うジャングル、美しい異国の街の豪華ホテルのベランダ越しに交わされる"大人の会話"、夜の尾行と謎の美女、屋根から屋根への逃走劇、列車の中の格闘戦、武器商人のエキゾチックなアジト、激しい撃ち合いの最中のキス、狭く曲がりくねった路地に展開されるバイク・バトル、息子を失った善良な老夫婦に訪れる僥倖‥‥‥。


フルコース&ジェットコースター。上のフレーズの一つ一つに「(笑)」をつけたくなるくらい、出てくるシーン出てくるシーンがハリウッドで繰り返し描かれてきた場面の見事なステレオタイプだ。そうしたどこかで見たような絵面をなるべくたくさん効率的に繋ぐためだけに、キャメロン・ディアスは二回も薬で眠らされ三回目は「敵」に殴られて失神し、彼女が目覚めるまでのゴタゴタした経緯は都合良く省略される。
当然話としては「ありえない」の連続で突っ込みどころ満載になるが、ハリウッドが描いてきた様々なパターンをアクション映画の枠内でまとめてスピーディに見せてくれている以上でも以下でもないものとして捉えれば、「キャメロン・ディアスはいい歳なのに、なんでいつまでもあんなバカ娘の役をやらされているのか」とか「派手なだけで内容が薄っぺらなハリウッドアクションの典型」という批判は無意味だ。


構図やプロットや俳優の身振りや台詞などに過去の作品へのオマージュを鏤めたり、有名な場面やキャラをパクったりという手法はしばしば見られる。クエンティン・タランティーノはそれを全面的にやった作家だが、そこにはB級シネマフリークである監督自身の引用元への個人的嗜好が反映されていた。「ああアレね。わかるわかる」という、その手の観客のニヤニヤ笑いとネタの解読を要請するものであった。
『ナイト&デイ』にあるのはそういう、どこかオタクなジャンク趣味が反映された引用の羅列ではない。「アクション、ロマンス、ハリウッドスターと来たらこれしかないでしょ」と言わんばかりに、ぬけぬけと衒いもなくど真ん中ステレオタイプをやっている。
全編映画的な記憶のみで作られているハリウッド自己言及作品に見えるにも関わらず、それがどこまで確信犯的に行われているのかは曖昧だ。いかにもあれこれ引用してやったぜというスノッブな楽屋裏受けを期待するドヤ顔は隠されている。「ゴージャスなアクション&ラブロマンス」の娯楽作品として、"普通に"楽しむ(キャメロンの目尻の皺はちょっと気になるが)人もいるだろう。
そういう意味で、この作品のジェームズ・マンゴールドはかつてのタランティーノを上回る擦れっからしである。


あるジャンルが「何かについて」語るのではなく、自己言及を始めた時、そのジャンルの死は近いという。かつてモダンアートはそのようにして"終了"したし、卑近なところでは「なぜ私はブログを書くのか」「ブログとは何か」ということについてうだうだ書き始めると、そのブログの終了は近いという話を読んだことがある。
あらゆるジャンルと内容と方法が出尽くし、映画黄金時代の作品へのオマージュもやり尽くされ、物語としての映画が終わった後の、シミュレーションによる換骨奪胎。既視感が濃厚に漂う「見せ場」=ジャンクの集積によって、中身をからっぽにし形式だけを残すことで生まれるジャンルへの批評的視点と遊び。そのジャンルの裏も表も知り抜き情報や知識のストックも豊富な作家が、一度はやってみたくなることだ。


だが、こういうネタをネタとして扱う手つきの鮮やかさや物語外のメタ視点を感じさせる手法は、映画に限らず2000年代冒頭あたりでその新鮮さは失われているようにも思う。映画的記憶をバックにした目配せや擦れっからしの笑いにはもう飽きた。
とか言ってみたりするのも、私自身が物語に、というかスクリーンに映っているものに、ただ"普通に"驚いたり打ちのめされたりしたい素朴な観客だからかもしれない。