移動

店には駐車場がなく、ワンブロックぐるりと回って市営の駐車場に車を停めねばならなかった。そのブロックはごちゃごちゃと古いビルが立ち並ぶ中に小さい空き地や通路があり、そこを辿っていけば向こう側の店の近くに出られそうだったので、駐車場を出てから私は近道をするためにビルとビルの間の狭い小道に足を踏み入れた。
道は微妙に蛇行しており見通しが悪かった。10数メートル歩いて突き当たったと思ったところで、また右手斜めに小道が延びていた。その6、7メートルほど先は古い朽ちかけた板塀で塞がれているらしい。「らしい」というのは眼鏡を車の中に忘れてきたせいで、はっきり見えないのだった。どこかに通り抜けられるところはないかと近づいていくと、板塀だと思っていたのは崩れかけたモルタルで、崩壊の速度が急に早まったらしく、目の前でボロボロと崩れ落ちた。その向こうにまた壁に挟まれた狭い通路があった。崩れたモルタルを踏み越えて私は通路に入った。
行き止まりに、幾何学的なレリーフ模様を施した白い壁が現れた。近づくと表面がカーテンのように微かに揺れていた。それは実際、壁のふりをした蛇腹のカーテンだった。その隙間に自分の体を入れて向こう側に抜け出ると、10メートル四方ほどの石畳の中庭に出た。周囲はドアも窓もない白っぽい壁で囲まれていた。とても静かだ。誰かが息を殺しているような静けさだ。微かに苔の匂いがする。どこにも通り抜ける道はなさそうだった。元の壁をじっと見ていたらそれがまたカーテンになるのではないだろうかと思ってやってみたが無駄だった。
一角に、壁に沿って鉄の梯子が取り付けてあるのを見つけた。見上げると3階建てくらいの高さだ。このくらいなら登れると思い、私は梯子を登り始めた。鉄の梯子のはずだったのに途中から縄梯子になっていて、足下がゆらゆらした。やっと屋上に辿り着いてみると、そこはテニスコートが4面は取れそうなほどの思いがけないだだっ広さで、真ん中に鉄筋コンクリートの素っ気ない造りの家がポツンと建っていた。とりあえずその家の人に頼んで階段かエレベーターを使わせてもらい地上に降りようと、玄関の呼び鈴を何度も押してみたが誰も出てこない。ふと見ると、ドアの横の、大きなサッシの窓のカーテンが少し揺れている。そこに絶対誰かがいると思った。でも出て来ないのだった。
私は諦めて家から離れ、改めて周囲を見渡した。地平線まで数えきれないほどの古いビルが林立していた。どれも同じ高さに設計されているらしく、一見どこまでも屋上が続いているように見えた。雪が舞う直前のように、空一面雲が重く垂れ込めていた。梯子のあった反対側まで行ってみると、隣のビルに飛び移るには少し難しい間隔が空いていた。映画だと助走をつけてぎりぎりでかろうじて飛び移るのだが、これは映画ではないのだから無理だろうと思った。手すりも柵もない端から下を見下ろすと、道路はまだ真新しいアスファルトである。敷いたばかりのアスファルトの匂いと熱気が立ち上ってくる。空気が急に粘度を増したように感じた。手を前に伸ばしてみると、まるで水の中のように抵抗があった。
空気は確実に重くなっていた。もう一度下を見下ろした。アスファルトは黒い河のように表面がうねっていた。あれはアスファルトではない。河のような何か。水のような何か。もっと重たい蜂蜜のような何か。ここから飛び降りてもたぶん大丈夫だと思った。ずっと後ろの方でカチャリと音がして、誰かが玄関から出てくる気配がした。突然、その人に見つかるとまずいことになるという思いが頭を過った。飛び降りよう。私は空中に身を投げた。
粘度を増した空気のせいで、私の体は時速20キロくらいで下降していった。やがて、蜂蜜と化した道路が私を柔らかく呑み込んだ。無理に足掻かない方がいいと自分に言い聞かせ、胎児のような姿勢で周囲の物質に身を任せることにした。蜂蜜は徐々に結晶化して次第にサラサラの砂のようなものに変わっていった。もう少し。もう少しで腐海の底に落ちる。
やがて私は砂まみれで真夏のビーチに投げ出された。海水浴の家族連れが目の前でキャッキャと波と戯れていた。50メートルくらい離れた道路端に私の車が停まっていたので、服についた砂を払いながら歩いていった。何年も海岸近くに放置されていたらしく酷い錆ようだったが、エンジンはちゃんとかかった。ガソリンメーターはほとんどゼロだ。でも帰る途中で給油できるだろう。車の乗り心地は良くなかった。だいたい車体自体が二回りほど小さくなっていて、シートが窮屈だった。ハンドルも固かった。
道はいつのまにか海沿いから離れ、見慣れた風景に変わっていた。河が近づいてきたところで、いつもの橋がかかってないのに気づいた。後ろから来た車は私を追い越してその河に向かって加速していく。そして軽々と河を飛び越して向こう岸に着地した。次々と車が河を飛び越していった。そういうことなのか。と思う間にも河縁がぐんぐん迫ってきたので、思い切りアクセルを踏み込んだ。車が宙に浮き、まるでグライダーに乗っているような感覚に囚われた。しかし向こう岸が遠い。車は妙に軽く、河の真上で横風に煽られて、紙飛行機のように傾きながら河面に落ちた。ザンブと水しぶきを浴びて私は車の窓から這い出し、遊園地にあるペラペラの乗り物にしか見えなくなった車と一緒に河下に流されていった。



私は時々移動する夢を見る。
昨夜はいつになくよく移動したので疲れた。
目覚めるといつも、ピアスが片方外れてどこかに行ってしまっている。



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