ホームレスの女

地下鉄の改札を出て5、6メートル歩いた時、初めて女のホームレスを見た。
もちろんそれまでホームレスの女を見たことはあった。テレビで見た中年夫婦のホームレス、繁華街でショッピングバッグを沢山持ったおばさんのホームレス、子どもの頃見た筵を敷いて座っていたおばあさんの「お乞食さん」。


地下鉄の改札の外で見たのは、若い二十歳そこそこと思しき小柄の女性だった。最初その人が視界に飛び込んできた時、新興宗教の人か何かかと一瞬思ったのは、彼女が全身白尽くめだったからだった。
白い大きめの半袖Tシャツを数枚重ねて着て、白い綿のスカートとも布切れともつかないものを腰にまとっていた。寒いからかTシャツの半袖に腕を通さず、中に引っ込めていたので、一見腕のない人に見えた。足は裸足で、真っ黒に汚れていた。少なくとも2週間は靴というものを穿かずに戸外を歩き回った足だった。髪は長く、手を入れて掻き回したかのようにグシャグシャで、束になって四方八方に逆立っていた。顔も日焼けと汚れで真っ黒だった。


彼女から2メートルくらい離れて、60歳くらいの女のホームレスが立っていた。白髪混じりの髪で、ピンクのトレーナーのようなものに厚手のスカートと素足にハーフブーツを穿いていた。何ごとか、若い方の女に喋りかけていたが、何を言っているのかはわからなかった。
土曜の夜7時、地下鉄の改札から出た人と改札に向う人で通路はごったがえしていた。誰も足を止めて見る人はいなかった。彼女たちはまるで空気のような存在だった。


通り過ぎる数秒の間に私はそれらのことを見、そのまま地下街に降り、数十メートル歩いて足が止まってしまった。引き返してまた改札の近くに行った。
若い女は壁際に移動していた。その横によくわからないゴミの詰まった透明のビニール袋があった。年とった女の方は同じ場所に立っていた。家財道具のようなものは周辺にはなかった。
男性のホームレスでも、ここまで酷い状態の人は最近は見たことがない。少なくとも、裸足の人は見たことがない。ほとんど荷物を持たず、この季節にこんな薄着の人も見たことがない。パフォーマンスをやっているとも思えない。どう見てもホームレスだ。それもおそらく最下層のホームレス。


何をしたらいいのだろうかということが、頭の中を駆け巡った。とりあえずあげられるものはお金しかない。さりげなく近寄って、手の中に千円札を数枚捩じ込んで立ち去ればいいのだろうか。それとも駅員さんに連絡して、警察に保護してもらうように言ったらいいのだろうか。
結局私はどちらもしなかった。再び彼女たちの傍を通り過ぎ、地下街を待ち合わせ場所に向かった。何をしても、自分の下らない良心を満足させるだけに思えた。
それでも何もしないよりはましなのでは? 
何かした方がましなのか。では何もしないで通り過ぎる人と、何かした私との間にどれほどの差があるのか。差などない。


何かするなら、千円札数枚でなく財布ごと渡すべきだろう。自分の上着と靴を脱いであげるべきだろう。私にはお金を借りられる知人が待ち合わせ場所にいるし、服や靴なんか家にいくらでもあるのだから。でもそこまでする勇気はなかった。
駅員さんに言って警察に保護を要請する? ではその後は。同じことになるのでは。それでも、何もしないよりはましだったのでは。ましとはどういうことだ。


子どもの頃(今から40数年前)、名古屋駅前に「お乞食さん」がいた。筵を敷いて前にブリキの缶を置いて座っていた。もう見るもボロボロの、人ではなく黒っぽいボロの山がそこにあるかのような風体をしていた。
父に手を引かれてその前を通りかかった時、父は小銭入れから百円出し(いや百円玉はまだなかったから十円だったかもしれない)、「あのカンカンの中に入れてきなさい」と言った。私は言われる通りにした。「お乞食さん」は微かに上体を前に屈めた。父の元に駆け寄ると、私の手を握って歩きながら父は言った。「貧しい人には恵んであげなければいけないよ」。これは良いことをしたのだ、と私は思った。
その時の私と今の私とは、違う。「良いこと」の依って立つ基盤の確かさを、私はもう信じていない。なのに、何もしないで済ました理由を探そうとしている(そんな自分も嫌いだ)。