「不公平」感のもたらすもの

『誰も「戦後」を覚えていない』(鴨下信一、文春新書、2005)の中に、「間借り」について書かれた興味深い章がある。

「不公平」こそが終戦直後の基調音
 ぼくは戦後日本の、特に終戦直後の日本の基調音となったものの重要な一つは<不公平>という感覚だったと思う。この感覚が、戦後の不安定感、危機感、あるいはイライラ感や暴力衝動の根本にあった。すべてはそこから生じたのだ。
 戦死した人間と無事で帰った人間、抑留された人間と帰国出来た人間、戦犯に指定された人間と逃れた人間、闇で儲けた人間と儲けられなかった人間、‥‥‥何もかもが公平でなかった。飢えている人間とたらふく食べている人間、着るものがなく震えている人間とぬくぬく着ぶくれている人間‥‥‥そして焼け出された人間と焼け残った人間。
 <住宅難>と総称されるトラブルの基は、この不公平さだった。
 昭和21年6月に<余裕住宅の解放>を義務づける改正住宅緊急措置令が施行される。一定大きさ以上の家は届け出なければならない。役所がその家を二世帯以上が生活できると判断すれば、同居人を置かねばならなかった。
 もっともひどいザル法で効果のほどは疑わしかった。すこし大きな家は玄関にやたらといろいろな姓の標札を並べて掛けていた覚えがある。間貸し逃れだった。
 そんなことをしなくても実際に焼け残った家は人でいっぱいだった。縁故を頼って親戚が、伝手を頼って知人が押し寄せた。
(p.52~53)


物資の乏しい時代、疎開先でも食料を蓄えている農家の人と、そこから物々交換で分けてもらう都会の人という「貧富の差」が生じたり、疎開した子供がその土地の子供に仲間はずれにされるということがあったという話をどこかで読んだことがある。しかし、被災した街の一つ屋根の下で現れてくる「上下関係」は、もっと過酷なものだったようだ。
住宅の建設が被災者の数にとても追いつかなかったために、多くの焼け出された人々は暫くの間バラック住まいか「間借り」を余儀なくされた。間借り家族は狭い6畳一間などの荷物の中で寝起きし、トイレを使うのもその家の人に気を遣い、大きな声で笑うことも憚り息を潜めて暮らしたという。戦前からあるのどかな間借り生活とは、天と地の開きがあった。
特に問題になったのは「食」。時間差でずらしても台所を共有して使用するために、相手の家族の食事内容がなんとなくわかってしまう。だんだん、互いの食べているものをそれとなく監視し合い、陰でヒソヒソと噂し合うようになる。こちらはいつも芋ばかりなのに、あちらは白米を食べている‥‥となれば、「ことは陰口・悪口で済まなかった」。
そうしたことから事件が起きる。

間借りがもたらした人間不信と狂気
 すこし大きな年表を見れば、昭和21年3月16日の項に、「十二代目片岡仁左衛門一家三人が薪割りでめった打ちにされ、惨殺された」という記事が見つかるはずだ。
 この歌舞伎俳優は、いまの仁左衛門とすこし家系がちがうが、戦前戦中美貌で鳴らした女形だった。なお記事は続く。「同宅に座付き見習いとして同居の飯田某を逮捕、家族は一日三食だが彼は二食、うち一食は粥、つまみ食いを叱られ爆発」。
 別の年表には「家族は五人、こちらは米、同居人は配給の小麦粉だった。その恨み」とある。
 兇悪事件が多発したこの時期でも、やはりこの同居と食が原因の事件は衝撃的だった。いまだにどの年表にも載っているのは、その記憶の名残りだろう。もちろんこんな時代でもどこから手に入れるのか豪華な食事をしている人もいたし、代用食もままならない人もいた。それは皆わかっていた。羨ましいがどうにもならない。
 しかし一つ屋根の下で差があれば、その恨みは骨髄に達する。間借り、というのはそうした状況なのだ。
(p.55~56)


やっぱり食べ物の恨みは根深いものがあるのだな‥‥と溜め息が漏れる。
もう一つ、実際に少年時代、家族で何度も間借りを繰り返したという著者が、「不公平」という言葉を使っているのが印象に残った。
「公平/不公平」とは第一義的には(人の)判断・行動のことだ。例えば、その場を司る者が「不公平」な分配をしたので不満が出るというように。一方「平等/不平等」は状態を指し、誰のせいでもなく偶々起こることがある。社会的不平等は是正されるべきだが、美人に生まれるかそうでないかは「不平等」だとしても致し方ないことだろう。
「不公平」は致し方ないで済まされない。そこに何らかの偏った判断が働いているとされる。従って「不平等」より「不公平」という言葉で何かが指摘される時の方が、より強い不満と怒りが表されている。


空襲で家を焼かれたか焼かれなかったか、間借りする側だったか間貸しする側だったかは、誰かの不公平な措置のせいではない。以前からあった不平等が一部影響しているとは言え、戦争によって個々に偶々訪れた運命としか言えない。
にも関わらず誰かのせいであるかのような「不公平」という言葉が何回か使われているのは、「一億総火の玉」の呪縛が解けた時に気づかされた隣人との差が、少年だった著者にいかに残酷且つ理不尽に感じられたかということの証左に思えた。
著者によれば、「間借り」は戦後の混乱、復興期を生きた人々にとって、「思い出したくない情景」であり、「皆が語らなくなるのも無理はない」ことだった。だからこそ逆に、その「不公平」の感覚は多くの人の心の中に深く刻まれて残り、後にドライな個人主義や利己主義に姿を変えていったのではないかと思う。


少し前に、大変にブクマを集めた増田記事「頑張れとか復興とかって、多分、今言うことじゃない。」と、やはり共感と反発を同時に喚起した河北新報からの転載記事「東北の怒り」を読んだ。
こうした感情を、世界からその律せられた振る舞いと公共心に尊敬の眼差しを向けられた被災地の人々の、どのくらいが共有しているのかごく僅かなのか、私には判断がつかない。が、ここにも何らかの「不公平」感と人間不信が生まれているように感じた。終戦直後のような互いの足を引っ張り合うが如き殺伐とした雰囲気はなくても、震災被災者と非被災者、余震や原発事故の影響下にある東日本と西日本、といった非対称のあまりの過酷さ、メディアを通してどうしようもなく感知される彼我の温度差はある。それが心理面から見えない断絶を作り出す。
現実に、この圧倒的な不均衡が、原発事故の影響による風評被害や出身差別として表面化している。そうした疑心暗鬼の目を向ける側が一方で採用する「自粛」こそ、表向き「配慮」という形で表された、「不公平」への謂れなき罪悪感ではないだろうか。誰が作り出したわけでもない、理不尽な「不公平」への。
この感覚が、長い時間をかけて私達の中に刻むものは何だろう。