「正しさ」の限界と「幸せ」と困惑‥‥先日の記事について

「ヘドがでるけどナ」と書いた学生
情報が記事内で不足していたためかもわかりませんが、あちこちで誤読や誤解が見られる気がするので、前記事の補足がてら「授業のやり方について」「学生への対応と、ブログに書くことについて」「ジェンダー及び性教育について」の三項目で、事実と今自分の感じていることを書いておきたいと思います。できれば前記事のコメントも参照して下さい。

授業のやり方について

講義は半期(15講)。2クラス(2コマ)もっています。選択授業です。年によってまちまちですが1クラスは80〜100人前後。学部や科や学年はバラバラ。ドラマや映画を見て学生に感想や意見などのコメント(ミニレポートと呼ぶ)を書かせ、その中からいろいろなタイプの意見を幅広くピックアップし、翌週読み上げながら私のコメントをつけていく、という形式を採っています。クラスごとではなく2クラス分は最初から混ぜて選びます。
学生の名は公表しない、内容は一切成績評価には反映させない(成績は出席率+単位認定レポートのみでつける)ということを条件にし、それを前もって学生に伝えています。
気をつけているのは、ある一定傾向の学生の意見だけを取り上げたり、万遍なく取り上げても一定傾向の意見のみ尊重するようなコメントをつけないようにすることです(詳しくは「ジェンダー入門」とネトウヨ君をどうぞ)。


また、学生の意見を授業外で紹介する可能性についても一番最初に伝えています。
今年は自著*1を紹介した時に「この中の一章は、学生さん達の意見や反応から考察を起してブログに書いたものをまとめてます。皆さんの書いた意見も、面白いのがあったら引用して書かせてもらうかもしれません」と言いました。
因にブログは最初の5年くらいはアドレスを教えていましたが、それを読まないと授業についていけないのではないかと誤解する学生が出たので、この4年ほどは「名前で検索すれば出るよ」とだけ言っています。興味を持った人は見に来ればいいということで。ごくごくたまに学生や元学生の書き込みがありますが、どのくらいの人数が見ているのかは把握していません。
以下、ミニレポートについてもう少し詳しく述べます。


本当はミニレポートの形式ではなく、直に講師と学生、学生と学生での意見のやりとりをするのが理想です。私もできれば、一言言いたいと待ち構えているアクティブな学生がひしめく中で、サンデル先生のようなディベート授業がやってみたいと思っているのですが、それは私個人の器もさることながら、リンク先の記事にも書いたように非常に難しい。
しかし皆の前で読み上げられること前提でも、匿名性が確保されれば実にいろいろ書いてくるものだというのは、始めた当初から感じています。
途中からプライベートな内容を書き連ねてくる学生もいるし、自分の中の逡巡や葛藤をそのまま吐き出して特に結論を書かない学生もいる。1、2行どころか数語で済ませる学生もいれば、紙の裏まで書いている学生もいる。文体もくだけた口語体混じりのから固めのまでさまざまですが、概ねラフです。
これらのミニレポートは学生の著作物というより発言として私は捉えています。


ある学生の書いた疑問に、別の学生の書いた意見が答えていることはしばしばです。また、ある学生の所謂「模範解答」を、別の学生の自分語りがバッサリ斬っていることもあります。これを実際に討論でやれば面白いやりとりになっただろうなぁと思うのですが、やはり大勢の目の前で互いに顔がわかっている状態では難しいのです。
なのでこのミニレポート形式は、互いに噛み合っていたり対立したり、又は全然違う視点を提示している意見を組み合わせながらいくつも提示し、それを聞いた学生達が自分の意見を相対化したり深めたり、別の価値観に目を開いたり批判力を養ったりするきっかけにしてくれれば、ということで採用しています。*2

学生への対応と、ブログに書くことについて

あの学生の意見を皆の前で読み上げてから「よかったら後で聞かせて下さい」と言われても、目立つから行きにくいだろうという意見が、前記事のコメ欄でありました。まず呼んで話を聞くべきだった、これからでもあの学生の話を聞いてあげた方がいいのでは、と。
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20110730/1312022488#c1312126401


これまで2000人以上のミニレポートを読んできた勘だけで言うと、あの学生は「直接言えない/言いたくないことを文字で吐き出している」タイプです。
ジェンダー入門の受講生の中で、私の担当する少人数の他の授業を採っている学生以外、私にとっては大半の名前と顔が結び付いていませんので、何を書いても自分とわからなければ平気でいられる。もしかしたら、こんな意見はどうせ皆の前で読めないだろうと思って書いたかもしれません。少なくとも、あれは他人の前では堂々と言わない方がいいことだということくらいは知っているでしょう。
とすると、呼び出して顔を確認して"真意"を尋ねること自体が、彼にとって非常に不本意で不愉快なことになるのではないか、と思いました。


であれば、私がそのコメントで感じたことは疑問として投げかけた上で、学生が選択できるようにするのが良い。2限続きの講義が終わって学生達が引けた後に私をつかまえることは可能ですし、それが無理なら非常勤用メールボックスに話したい旨メモを残すこともできますから、彼がどうしても話をしたい、聞いてほしいと思っているなら自ら来たでしょう(実際そういうかたちで、授業後に個人的に話を聞いた学生は何人もいます)。
その意思のない学生を強制的に呼びつけたいとは思わないし、ミニレポートに思ったことを書かせた上で、更に「自分からは言い出せないだろうからこっちから誘って話を聞いてあげよう」といった温情主義というか過保護は(中学生ならまだしも)、大学生を大人扱いしていない気がするのでしたくありません。


学生のコメントを読んだのは、私が知っているだけでなく、私と講義を受けた学生の全員で共有したほうがいい情報だと思ったからです。彼のようには書けなくても、そう感じている学生はいる可能性がある(実際フォローの入っている書き方では複数あった)。逆にそんなことを書いている学生がいるなど、これっぽっちも想像しない学生も多いと思われます。
そういう学生達に、こういう意見があったと知らせ、私の感じたことを伝えることが、結果的に何をもたらすのかはわかりません。
この「わからない」という感覚が記事を書こうとした動機です。


授業の中で出た学生の意見を、匿名性(プライバシー)を確保した上でブログで取り上げることは、特に問題のあることではないと思っています。「晒す」「晒した」という指摘を見ましたが、それは発言に顔や氏名やそれらに容易に結び付く固有の情報が付与されている場合ではないでしょうか。
10人前後のゼミなどだったらそれがなくても「あいつのことでは」という噂が立ってしまうかもしれませんが、私の授業は2クラス合わせてその20倍近い人数です。


あの文面にプライベートな事情が書かれていれば取り上げません。また、単位認定レポートを出していても取り上げません。今成績をつけている最中ですから、こちらに評価を委ねている状態の学生の発言を取り上げて云々することは、まず差し控えたと思います。
彼がレポートを出してない、つまり単位を取る気のない学生であることを確認して、記事を書いてもいいと判断しました。
もし学生の文章の一部や発言を取り上げて書くのは拙いとなると、教育の現場で起きていることについて、どこで他者と問題を共有し考察したらいいのでしょうか。同業者で集まって情報交換するのでしょうか。私は知り合いがいませんし、どんな組織にも属していません‥‥‥。
それは措いても、性と教育に関わる具体的な話題こそ、(プライバシーが確保されている限りにおいて)さまざまな意見をもった人の目に触れることが良いのではないかと思っています。


書き方を学生へのdisと捉えている方も多いですが、記述としては事実とそこから推測されることを書いているのみです。
読み手が学生への怒りの感情といったものを感じ取ったとしたら、それはあの教室の中にいて(実際いたかどうかは不明)記事を読むかもしれないセクマイ当事者の気持ちを考えないわけにはいかなかったので、私にはゲイへのヘイトスピーチとも取れる言辞を書いた当の学生を突き放した書き方で終わっている、ということかと思います。*3
また、ジェンダー論の講師ならこういう学生に心底怒り攻撃するはずだという予断を記事に投影して読んでいる人も、中にはいるように感じました。
彼の感じた嫌悪感はどうしようもないものです。それは対象が違えど、誰の内面でも起りうることです。しかしその内面の嫌悪感を所構わず表出すれば、差別的言動となることもあります。もちろん私はあの学生を「嫌悪感を剥き出しにしている」とは表現しましたが、その言葉を読み上げたのは私ですから、彼を差別者だと断じているのではありません。


正直に言えば、私にあるのは怒りよりは困惑です。困惑というか行き詰まり感です。今更ながらの。
この感じは、ジェンダー論の授業及び性教育に関われば、宿命的につきまとうものであろうと思っています。

ジェンダー及び性教育について

学生の書いた一文は前記事にも書いたように、「何とも言えない気持ち」を私の中に引き起こしました。それと同時に、模範解答を含む他の学生達の意見より重要なものをこちらに突きつけていて、看過できないと感じました。
これは、特別興味はないが単位取得目的の学生の多いジェンダーの授業を持ち、学生達の反応をつぶさに観察してきた人なら、大なり小なり必ず覚えのある感覚だと思います。こんなものはノイズであって取るに足りない、取り上げる価値すらないレイシストの発言だと切り捨てて、なかったことにする人はいないと思うのですが、どうでしょうか。


ジェンダー論の授業ではなくても、こういう学生の反応はあると思います。しかし性というプライベートな、感覚や生理や感情に深く関わる領域だからこそ、反発は現れやすくなります。一つの言葉がある学生を救い、同じ言葉が別の学生を傷つける。あらゆる立場、考えの人に平等に配慮した言葉を紡ぎ出すのは不可能です。
そしてジェンダー論と銘打っている以上、現実のさまざまな性差別やセクマイ差別についての情報伝達を通して、「人権教育」を何らかのかたちで導入せざるをえません。私は交流がないので知りませんが、性教育の保健衛生的な知識面以外は、ほとんど人権教育としてジェンダーの授業をもっている講師の方が多いかもしれません。


そこでは常に一つの「政治的な正しさ」が確保されます。この「政治的に正しい」結論が先取りされている感が、ある種の学生を苛立たせることはなんとなくわかります。考えてみれば私自身が時々それに苛立つからです。極論すれば、その「政治的な正しさ」が最終的に描く「私たちの幸せ」こそが唯一目指すべき「幸せ」だというような理念が見え隠れすることに。
だから授業の中ではそちらに誘導するのをなるべく避け、むしろ混乱させ、学生に自分の言葉でものを考えてもらおうとしてきました。*4


すると、「セクマイへの偏見や差別をなくしていくにはどうしたらいいと思うか」という問いは、判で押したような「政治的正しさ」への誘導そのもので、そこに学生の抵抗があったのではないかという批判があろうかと思います。これはコメント欄でもご意見が出ました。私の返事はこちらです。
授業内でこの手の質問に答えてもらう(厭なら答えなくても良いが)ことは、かつてはありませんでしたが、去年から『メゾン・ド・ヒミコ』を扱うようになり、その中で典型的な偏見や差別的言動が描かれている以上、この質問を出すのは不自然ではないと判断した、そういう経緯もあります。
問いの仕方がいかにもアレだという点では、若干の逡巡がありました。どうやったら自分の頭を使わないと答えが書けない良い質問が出せるのかは、授業運営における課題の一つです。*5



こうして書きながら明確になってきたのは、あの吐き捨てるように書かれた一言が、ジェンダー論の講義や性教育が常に既に孕む「躓きの石」だということです。
それは、教育があるべき「正しさ」に向かって学生を導こうとすれば、必ずさまざまなかたちで現れるものです。教えるテクニックの問題とかいうことではないのです。押しつけにならないようなテクニックを駆使し、学生が自主的に「正しい」答えを導くことができたように見えた時ほど、誘導が有効に働いている時はないとも言えます。
「人権教育」や「政治的な正しさ」にとっては、「躓きの石」は教化の対象です。そういう言辞、考え、振る舞いを批判し改めさせることを身上としている以上はそうでしょう。


こういうスタンスの中では、私は性について深く考えることができません。性の根源にあるのは一種の暴力であり差別そのものです。ヘテロもゲイも、またフェティシズムからペドフィリアまで、人の性的指向/嗜好は倒錯という意味において同じです。
近代社会では理念的にも実質的にもそれを放置しておくことができないために、平等と人権の概念が適用されているに過ぎません。もちろんその概念を手放せば世の中はカオスです。


話が逸れましたが、学生達には、できればそのあたりのところまで悩みながら考えを詰めていってから、さまざまな場面でどうふるまったらいいのか考えてほしいし、その手助けをしたいという気持ちがあります。
でもそちらから「人権教育」までカバーし、尚かつ一通りの基本的知識を身につけてもらうのは、半期ではとても無理です。
そして、それも教室という権力の場で、非対称の固定的な関係性の中で行われている限りは、当然「教化」なのです。


どうしたらいいんだろ。
試行錯誤の足下がどんどん液状化している中で小石を拾っている気分です。

*1:『「女」が邪魔をする』(2009、光文社)。授業では直接扱っていませんが、私の「ジェンダー論」はこの中に凝縮していますので、最近ブログではどっちかというと風景スケッチ的な書き方になっています。

*2:今のところ、この形式は概ね好評のようで、これまで「他の人や先生のコメントを聞くのが楽しみだ」「自分だけがそう思っているんじゃないと知って安心した」「いろんな意見があって面白い」といった反応がありました。

*3:因に、彼のすべてのミニレポート(4本)を見てみましたが、ゲイへの嫌悪感を示している例の二カ所以外は至って普通で、授業全体や私個人への反発も特に感じられませんでした。

*4:単位認定レポートでも、「正しさ」を微塵も疑わない表面的な模範解答には可しか与えていません。そこに自分なりの思考の跡(しばしば論旨の乱れや矛盾となって現れます)があれば良、独自性と説得力が加われば仮に一般的な(所謂ジェンダー論的な)「解」とはかけ離れていても優です。

*5:これまでドラマや映画を見て自由に感想を書く際、それとは別に設定した質問について列挙しておきます。1、『やまとなでしこ』▶桜子はジェンダーを内面化しているのか、ジェンダー規範と戦っているのか、ジェンダーを仮装しているのか。その具体的な理由も示せ。2、『風の谷のナウシカ』▶「女性的な力が世界を救済するのではないか」という世界観についてどう思うか。共感、疑問、反論その他理由と共に示せ。▶日本で大量の戦闘美少女キャラが生まれ消費されたのは何故か。思いつく理由を書け。3、『ヘドウィグ&アングリー・インチ』▶特に印象に残った場面についてその理由を示せ。▶ラストシーンの意味を解釈せよ。4、『メゾン・ド・ヒミコ』▶ラスト近く、春彦の言葉に沙織が泣いたのは何故か。▶セクマイへの偏見や差別をなくしていくにはどうしたらいいか。▶家族とは何か、自分の意見を書け。/追記:「セクマイへの〜」の質問に学生達の答えを受けて「私も完全に差別をなくすことは到底できないと思う。でもそういう認識をもつことと、なくならなくていいとするのとは違う」と言いました。