原節子、死者の代理人

先日、ずっとかかりっきりだった原稿に一段落ついたので、一人で”小津トリエンナーレ”を開催した。”小津トリエンナーレ”とは三年に一回(くらいの割合で)、家にある小津安二郎の映画DVDを数日かけて観直すことである。『晩春』(1949)以降の作品のうちの10本だけだけど。
小津作品の批評や研究も多い中、以下のような指摘も既にあるかと思うが、自分的に発見だったので書いておく。


いつも思うのが、原節子という女優の特異さだ。
周囲の人物はその役柄に嵌りその役柄を生きている人に見えるのに、原節子だけはいつも少しだけ浮いている。まったくもって生臭み、俗世間臭さがないのは、日本人離れした骨格や目鼻立ち、あの発声と言葉遣い、服装(『東京物語』に顕著だが、白いブラウスと長めのスカートという超シンプルなスタイルが想像させる潔癖さ)のせいもあるが、それだけではない感じ。周囲の人々の中で、彼女だけ何か特殊な、この世の人ではない雰囲気を醸し出しているように感じる。
役柄も特異だ。小津映画のミューズと言われる通り、物語の要となる特別な役が割り充てられているわけだが、周囲の人物の思惑が比較的わかりやすいのに対して、原節子の考えていることは一見わかりにくい。結婚を勧められてもなかなか「うん」と言わず(『晩春』、『東京物語』、『秋日和』、『小早川家の秋』。このうち最後に結婚するのは『晩春』のみ)、かと思えばいきなり思いがけない決断をして周囲を驚かせる(『麦秋』)。


『晩春』では、母に早くに死なれ、父と長年二人暮らしの娘。『東京物語』では、夫が戦死した未亡人。『秋日和』、『小早川家の秋』でも、夫に早くに死なれその後は独身を通している女性。『麦秋』では、兄を戦争で失っているという設定。原節子の背後にはいつも死者がいる。
未亡人役では、縁談などがあっても、義父母に勧められても、再婚の決断はしない。死んだ夫が心の中にいるからだ。『晩春』では父への強い愛情ゆえになかなか嫁がない娘を演じていたが、亡き母が原節子に乗り移っていたのかもしれない。『麦秋』では、エリートサラリーマンとの縁談を蹴って、戦死した兄の親友(バツイチの子持ち)との結婚を決める。まるで天国の兄が「あいつなら結婚してもいい」と許可してくれたかのように。


小津安二郎(及び共同脚本の野田高梧)は、原節子にあまりに禁欲的な女性像を当て嵌めている、女性を男目線で理想化し過ぎている(「永遠の処女」)という意見はあるだろう。だから普通の女のように易々と男と結ばれて欲しくなかったのだと。私もそれは少し感じるが、小津映画の原節子は「この世とあの世の中間にいる人だった」と考えると、別のかたちで納得がいく。
彼女がいわゆる算盤勘定や世俗的欲望から超越した、己の倫理にあくまで忠実な女性を演じているのは、死者のせいである。彼女は死者の代理人であり、生きている者に向かって「死者を忘れるな」と無言のうちに唱え続けているのだ。*1 だから周囲からやや浮いた、どこかこの世の人ではない雰囲気を醸し出していたのだ。
とりわけそれが戦死者の場合に、自分も出征し戦地で仲間や友人を失っている小津安二郎は、原節子を死者を悼み続けるミューズとして位置づけたかったのではないか、と私は想像する。


晩春 [DVD] COS-021

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麦秋 [DVD] COS-022

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東京物語 [DVD] COS-024

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秋日和 [DVD]

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小早川家の秋 [DVD]

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*1:と書いていて思ったが、これはまるでギリシャ悲劇の「アンチゴネー」だ。原節子は法に逆らうタイプではまったくないけども、どこか神話的な雰囲気はある。アテネの女神のような扮装も似合いそうだ。頭に月桂樹の冠を被って聖火を掲げていても違和感のない女優。