「人形を相手にしている女の子、あれは決して遊んでいるのではない」(読書メモ)

時代が病むということ―無意識の構造と美術

時代が病むということ―無意識の構造と美術


『時代が病むということ 無意識の構造と美術』(鈴木國文、日本評論社、2006)。タイトルにした文を含むルチオーニという人の引用文章から啓示を受けたという友人に教えられて、少し前に読んだ。第一部「シュルレアリズム」、第二章「知は男の側に、真理は女の側に」より抜粋。

 現代のフランスの女性分析家、ルモアーヌ・ルチオーニは、その著書『Partage des femmes』に、次のように書いている。
 「男の子はさまざまなもので遊ぶ。ちょうど彼が既にそのペニスを弄んだように。しかし、幼い女の子は遊ばない。少なくとも女性的な遊びと男性的な遊びの間に、共通なものはほとんどない。‥‥‥人形を相手にしている女の子、あれは決して遊んでいるのではない。」
 では、彼女は何をしているのか。ルチオーニは、地震のさなか、どこかに行ってしまった自分の人形を取り戻そうと廃墟をさまよう女の子を描き、そこに冥府のデメテルの姿を見ている。デメテルとペルセポネはDouble-déesse、つまりふたつでひとつの女神、ふたつでひとつであるがゆえに永遠の苦悩を背負う女神である。ルチオーニはこのふたつへの分割という点にこそ、女性にとって最大のテーマがあるといい、女性は分割という根源的な苦難を被っているがゆえに、その生涯にわたり、自身の複製、自身のコピーとしての何ものかを作り出すことに関心を持ち続けると言う。そして、しかもそれは「オリジナルのないコピー」だと書く。
 ルチオーニは、「美しさ」に触れた一節で、美の反対は醜だろうかと問い、それに否と応えている。美の反対はむしろ闇であり、形の崩れであるところの醜ではない。醜にはまだ形がある。それは美の不完全に過ぎない‥‥。ここで彼女が言わんとしていることは、「男性原理」である「力」の反対は何かということを考えてみるとよくわかる。力の反対は反対方向の力、つまり他者の力と考えることができる。それに対して、美についての「反対方向の」ということを考えることはできない。考えることができるのはただ闇とそれを見つめる視線だけである。この闇こそ、地震のさなか、なくした人形を求めて廃墟をさまようあの少女の目の前に広がっていたものである。「女性は生まれながらにしてピグマリオン−人形愛者−である」とルチオーニは言う。
 女性は、自身がオリジナルのないコピーであるということを、あるいは原初的な分割を被っていることを、生まれながらに知っている。そして、コピーを剥いでいったその先にあるものが、深い渕でしかないことを知っている。あるいは、彼女はそのことをこそ生きている。男の子も、自身が分割を受けていることに、どこかで気づくことがあるのかもしれない。しかし、彼らは、幸運にもそのことを忘れて、探求の先にはきっと真理があるものと思い込む。
[中略]
 しかし、分割の記憶を喉に刺さった刺のように、いつまでも保ち続ける男の子がいる。彼らは、この分割の謎を解く鍵を、女性の背後へと求めるのである。こうして、男が女に真理を求め、女の助けを借りて知を編むという構図ができあがる。
(p.20〜22)

 シュルレアリストたちは、女性との現実的な関係において幾度となく破綻を繰返しつつも、現実の女性をより大きな無意識的構造の中にとらえなおそうと絶望的な試みを続けていた。シュルレアリズムの運動の中で、現実として生きる女性は、同時に、現実を超えて生きる女性でなくてはならなかった。あるべき無意識の現実、過剰の現実を具現することを求められた女性たちは、結果としてさまざまな苦難にさらされている。しかし、この苦難は、二〇世紀を生きた女性の多くにとっても、決して無縁のものではなかっただろう。時代がそうした知の力動を要求していたのである。
(p.22)


原初に欠損(「ふたつへの分割」)があるがゆえに欲望が生まれる。欲望の対象は無意識にあるので常に捉え損ねられ、それによって「芸術」が生まれる‥‥というのがフロイトの考え。ブルトンは「精神病」「女性」という、「到達することのできない二つの「外部」」を常に意識していたため、フロイトの無意識の構造を必要としたと著者は書いている。
また、ボーヴォワールは「ブルトンは女を男の創作の源泉」とすることはあっても「当の女性たち自身の力を認めてはいなかった」と批判しているが、ブルトンの「グラディーヴァ(前進する女性)」というイメージには「女性に意味生成の現場」を認めるような視点があったのではないかと指摘し、シュルレアリズムの女性画家、バロ、カリントン、トワイヤン(トワイアンとの表記)について述べている。


「女性の問題は、この世の驚くべきもののすべてであり、困惑をもたらすもののすべてである。」
(『シュルレアリズム第二宣言』)


●付記
シュルレアリズムの女性画家の中で私の一番好きなのはトワイヤン。有名な『休息』他の絵の画像と、トワイヤンの紹介記事。
トワイヤン1:寂寥 - artshore 芸術海岸
トワイヤン2:抵抗 - artshore 芸術海岸