上りエスカレーターを下り、改札を駆け抜ける

知人に会うため、夫と二人で出かけた時のこと。その日はお酒を飲む予定だったので、最寄りの駅まで歩いた。15分か20分に一本くらいの割合で来る田舎町の私鉄単線の無人駅。普段は車ばかり使っていてあまり利用することがないので、時刻表も調べていない。
踏切が見えるところまで来たら、下りの電車が通過していった。「たぶんあれが終点まで行って戻ってくるから、来るのはあと12、3分後くらいだ」と夫が言った。余裕だったなと思いのんびり歩いてその踏切を渡ったとたん、また警報機がカンカンと鳴り出した。「わ、もう来た」「さっきのが戻ってくるんじゃなかったの」「ごめん違っとった、急げあれに乗る」。
仕方なく線路沿いの道を30メートルくらい駅まで走った。当然、到着するのは電車の方が早い。「切符買う時間が!」「走り抜けろ!」。夫はそのまま改札を駆け抜けた。続いて私も駆け抜けた。ビッとブザーが鳴りかかり、ゲートの扉が腰を掠めたがかろうじて通過。飛び乗ると同時に電車のドアが閉まった。


あと12、3分待てば次の電車が来て、それに乗っても約束の時間には間に合うのだ。こういう時、諦めて大人しく次を待つのが大人。改札駆け抜けるのは中学生。50過ぎて夫婦して中学生みたいな真似してる大人がどこにいる? ダッシュしたお陰でこの暑いのにまた汗掻いちゃったじゃないか。
そういうことを走り出した電車の中でブツブツこぼしたら、夫は二両の車内をキョロキョロ見回し「おかしいな、車掌がおらん。前は『乗り越しの方いませんか』って回ってきたのに」と言った。こんな田舎の路線なんか人件費削減で車掌は乗ってないよ。念のため、下り列車通過待ちの駅で停車している間に運転手の人に訊いてみたら、「今、車内では切符販売していないんですよ。駅で降りてから買って下さい」。


高校一年くらいの頃、学校帰りに友達の買い物に付きあってユニーに行った。上ってくるエスカレーターを見下ろしながら友達が、「これ下りようよ」と言った。え、ちょっとそれは‥‥と言う間もなく、彼女は制服のスカートを翻し、タタタタタタと上りエスカレーターを逆に駆け下りていった。
その後ろ姿を私は呆然と眺めた。下を見れば、打ち寄せてくるエスカレーターの階段の波。足が竦む。でも怖がっていると思われるのは悔しい。最初の1、2歩で足がもつれて転びそうになったが、必死に駆け下りた。全速力のつもりで両足を動かしても、階段が次から次へと押し寄せてくる。下に着くまでがすごく長い時間に感じた。
‥‥しかしこういうくだらないことも、中学生がすることだ。


『下り階段をのぼれ(Up The Down Staircase) 』(ロバート・マリガン監督、1967)という映画がある。新任の女性教師が、ニューヨークの貧民街で育った問題児ばかりのクラスを抱え、思うがままにならない現実と闘いながら、自分の信念を貫く姿を描いた学園もの。
赴任早々、「下り専用」と書かれた階段を上って彼女は注意を受ける。つまり決まりきった慣習に囚われるなという意味が『下り階段をのぼれ』というタイトルに込められているのだ。ガラガラに空いている下り階段を上ったとしても、誰に迷惑を掛けるわけでもない。もし人とぶつかりそうになったら互いに脇に寄って、通路を譲り合えばいいのだし。


タイトルだけ知った時、「下り階段」というものがイメージできず、下りのエスカレーターのことかと思った。『下りエスカレーターを上れ』というタイトルだと、慣習に囚われずに行動するというより、「上」から押し寄せてくる流れに「下」から無駄に逆らうイメージになる。なんか無理矢理感と悲壮感が出てくる。その割に動きがコミカル。
『上りエスカレーターを下れ』も同様だ。せっかく「上」に来たのに、「上」へ「上」へと押し上げてくれる動きがあるのに、それに逆らってわざわざ苦労して「下」へ転落しようという‥‥。そりゃ足も竦む。
そういえばその友達は、私よりずっと頭のいい何をやってもできる優秀な人だったが、その後、まさに「上りエスカレーターを下る」かのようにいろいろあって学校に来なくなり、結局一年留年した。


「改札を駆け抜ける」のは、どういう意味になるだろう。もし『改札を駆け抜けろ(Run Through The Ticket Gate)』という映画があったとしたら、『フレンチ・コネクション』みたいな、犯人を追う刑事がやたら走る物語になるかな、やっぱり。
凡人のちょっとした逸脱行為は、ドラマとは本当に程遠いものだ。