上映中にコミュニケーションする人

公開中の『かぐや姫の物語』を観に行った時のこと。日曜日で”映画の日”、しかも「三歳未満入場可」だったので、小さな子ども連れもいるだろう‥‥ということは、途中で子どもの声に視聴を多少邪魔される可能性あり。それでもまあいいかと思って出かけた。
客席は6〜7分の入り。同じ列に子ども連れが3組いた。左の方に座ったのは小学校4、5年くらいの女子とお母さん。右に一つおいて座ったのは、それより少し小さいたぶん小学生の女子とお父さん。その向こうに5歳と2歳くらいの幼児を含む4、5人の家族連れ。
さてこの中で、周囲の人々の視聴を一番邪魔したのは誰でしょう。
幼児でも小学生でも、もちろんお母さんたちでもない。隣のお父さんの男性だった。


物語が始まってすぐ、その男性が普通の声で娘に話しかけたのが聞こえた。何と言っていたか忘れたが、スクリーンに映っているものについての感想だったと思う。ヒソヒソ声や低めた声ではない。前を向いたまま、まるで自宅のリビングで娘と一緒にDVDを観ている時のような声の出し方だった。
一瞬「え?」と思ったが、まあたぶんすごく『かぐや姫の物語』を楽しみにしていたのと、久しぶりに娘と映画館に来て、嬉しいのでつい声が出ちゃった、ということかなと思った。
少しして娘が何か言ったらしく、また男性が喋った。「そうそう、線が違うでしょう、プリキュアと。こう、クイッとなってるよねー」とか何とか。まったく何の遠慮もない普通の声だ。あたりに響き渡っていると言ってもいい声だ。思わずその人の方を見た。その向こうの家族の一人も、首を回してチラッと男性に視線を投げたのがわかった。これで気付いてくれるだろうと思ったら、甘かった。


4回目くらいに男性が声を発した時、忍耐の限界が来て「ちょっと、静かにして下さい」と言った。驚いたような顔でこちらを向いたその人に、私は口に人差し指を当てて見せた。男性は、あ?ああ‥‥というような顔で前に向き直った。
その後はしばらく静かだったが、やがて娘の方が退屈してきたのか、立ったり座ったりチラシで前の手すりをパタパタ叩いたりし始めた。男性はそれを注意するでもなく、持参した水筒の蓋をカチャカチャ音を立てて開けてお茶か何か飲んでいる。そして2度ほどまた喋った。
なんだかだんだん、その人が不気味に思えてきた。非常識とか配慮がないというレベルではないような感じ。よくわからないが何かが最初から欠落していて、注意しても意味が通じない人なのかもしれないと思った。
結局、上映終了までにその人は、5、6回普通の声で喋った。その向こうの家族の幼児は、2人合わせて3回声を上げただけである(その度に親が「シーッ」と言っているのが聞こえた。最後は親の一人が外に子どもを連れ出した)。*1


映画館で大人に邪魔されたことは、過去にも何度かある。ある時は、後ろに座った中高年の女性3人連れ。「あれ、どうなってるの?」「ああ、そういうことだったのね」「あらー大変なことになっちゃった」「あらあら〜」と、いちいちリアクションしている。ヒソヒソ声で喋っているつもりなのだろうが、全部聞こえる。映画に集中できない。
振り向いて口に人差し指を当てるゼスチャーをしてから前を向くと、「まぁ‥‥」「なんなの(ヒソヒソ)」という声が聞こえてきた。せっかく楽しく観ているのに注意されて心外だわ‥‥という空気。心外なのはこちらだ。
若いカップルで、男性が女性に頻繁に話しかけているすぐ傍の席に当たったこともある。「あれさぁ、絶対◯◯になるよ‥‥ね、ほら」。迷惑なので注意したらムッとした顔をされた。食べ物の音に悩まされたことは数知れない(大人子ども関係なく)。


考えてみると私の場合、映画館では子どもがうるさかったというケースより、大人がうるさかったケースの方が多い。
幼い子どもが画面に反応して声を上げたり、興奮して思わず何か喋ったりするのは仕方ないと思う(その場合は大抵、同伴した大人が静かにさせようとしている)。また、周囲の人々の笑い声の中で自分も一緒に笑っている、スクリーンが涙で滲んだと思ったら隣の人が鼻を啜っている‥‥という、ロードショーのお祭り的体験は私も嫌いではない。何十年も前、何も知らずに行った『ロッキー・ホラー・ショー』の上映で初めて観客が踊るのに遭遇した時はたまげたが、ああいうのは楽しい。
しかし、映画を観ながら喋るというのがわからない。マナー以前の問題として、わからない。だって自分が没入できないじゃないですか。


劇場で公開される映画は、ほとんどが物語映画だ。その虚構の世界に、現実から完全に切り離されて2時間ほど没入する。映画鑑賞とは、音と映像と物語によって脳内麻薬が分泌され、あちらの世界に行けるトリップのようなものだ。少なくとも私にとっては。
なので、没入に不必要なものは極力排除したいと思う。できるだけ飲み物も食べ物も持ち込まない。やむを得ず持ち込んだ場合は、予告編の間に消化する。誰かを誘って行くことも滅多にない。その映画が今いちだったりすると、誘った隣の人が退屈してるんじゃないかとか、邪念が頭を掠めてしまうからだ。
とにかくあらゆる些事を忘れ、目と耳と脳だけになって映画の内容に完全没入し、1コマ1秒たりとも見逃さず、飢えた猫がサンマを喰らうが如く作品を隅々までしゃぶり尽くし味わい尽くしたい。貧乏性かもしれないがそう思う。


しかし、映画館でカジュアルに喋る大人を何人も見てきて、私のような鑑賞姿勢はだんだん古いタイプになっていくのかもしれないとも思った。
誰かと一緒に映画館に来て、観ているものについて言葉に出す。それは映画をコミュニケーションのために使用しているということだろう。映画を通じてリアルタイムで感想、共感を確認し合うことが大事で、映画それ自体が目的ではないように見える。最初に例に出したお父さんはかなり特殊だったのかもしれないが、上映中にヒソヒソ喋っている人を見るとそう感じてしまう。


アニメがテレビ放映されると、2ちゃんねるTwitterで実況がされている。大勢の人が参加して、一種のイベントのようになったりしている。ここでは作品は、皆で楽しんでいるという事実を共有するための媒体だ。たぶん『ロッキー・ホラー・ショー』のアレに近い。
そういう実況祭りに参加する人も、映画館では黙って鑑賞する人がほとんどだと思う。しかし、もし映画館でも同じことをしていいことになったらどうだろう。する人は出るような気がする。
もちろん家でのDVD鑑賞というスタイルが、映画館での鑑賞姿勢に影響を与えたということも言える。だいたい、映画なんてそんな息を殺して観なければならないようなもんじゃない。そんなふうに映画を捉えるのは一部のシネフィルやオタクであって、普通はポップコーンでも頬張りながら、親しい人と勝手なことを言い合って観る=興じるもんだ。そういう考え方の方が主流になっていくのかもしれない。


映画にしても小説にしても美術にしても、優れた作品は私を「あちらの世界」に連れて行き、一人きりの場所に置き去りにするものだった。そこで、自分の感情や感覚や価値観と改めて向かい合うように、誘うものだった。
その作品について人と語り合ったりどこかに書いたりすることはあっても、最初から誰かとのコミュニケーションが前提にされることはなかった。少なくとも私にとっては。
でもそういう考え方も今や古いのかもしれない。



●付記
いっそ機内の映画鑑賞のように、高性能のヘッドホンで周囲の雑音を遮断して没入できるようなシステムがあったらいいのにな。そう思ってちょっとググッてみたら、やはり同じようなことを考える人はいた。でも実現はなかなか難しそうだ。
映画館って音声はヘッドホンにしたほうがよくね?|映画.net - ネタバレ|感想|評判 2chまとめブログ -
映画館ってヘッドフォンで音響を楽しめるようにしてほしいですよね。‥‥ - Yahoo!知恵袋

*1:かぐや姫の物語』がどっぷり浸れるところまでいかなかったのは、たまたまこのように鑑賞環境が悪かったせいもあるかもしれない。もう一回観に行くかどうかは考え中。