「美」とルッキズムをめぐるメモ

もうほとんどの人が忘れたと思われる宮崎県日向市のCMへの「ルッキズム」観点からの批判、ルッキズムに囚われがちな一人として悩ましい部分があった。
たとえば、スマートな人の外見が(そうでない人より)好みだということと、それを一般化して語ることとは区別すればいい‥‥‥で本当にいいのか。
厳密に言えば、区別するのは難しい。世の中にスマート>デブという権力勾配がある中では、「私は太った人よりスマートな人が好きです」という"個人的"言明も、ルッキズムだと見なされるかもしれない。


ルッキズムは単に容貌差別(容貌至上主義)というだけではなく、太っているより痩せている方が、背が低いより高い方が、顔が大きいより小さい方が、鼻が低いより高い方が、目が小さいより大きい方が、肌が黒いより白い方が‥‥(相対化されてきた部分もあるが)という西欧中心的価値判断を含んだものだ。
「太っているより痩せている方が美しい」という価値観が現在主流である以上、逆に誰かが「太った女性が美しい」として写真に撮ったりしても、それは「痩せている女性への差別」にはならない。世の中には圧倒的に、痩せた(というか所謂”ナイスバディ”と言われる)女性のビジュアルの方が多く、デブ賞賛的な場は限定的だから。


日本の場合も「美」の基準なるものは西欧の影響を強く受けているが、一方には「小さくてあどけなくて可愛い」という日本人的な基準もある。
「美」およびルッキズムは文化支配の産物でもあるから、アジア人が大昔から政治、経済、文化面で世界をリードしていたら、アジア人的体型や顔がもっとも美しいとされたかもしれない。
急に思い出したが、小津安二郎の『秋刀魚の味』の中で加藤大介が、「これで戦争に勝っててごらんなさい、アメ公がちょんまげ結って三味線弾いて」みたいなことを言う。


「どんな体型、どんな顔の人も、差別される謂れはない」とは言えるが、「どんな体型、どんな顔の人も、美しい」ということにはならないだろう。「美」とは常に特権的なものであって、すべてが美しいとなったら「美」そのものは消滅する。
「美」による差異化が一切なくなったら、平和な世界にはなるかもしれないが、快楽の一つは確実に失われる。


ルッキズムが最後まで残るだろうと私が思うのは、それが欲望(広い意味での性欲を指す)に深く関わっているからだ。言い換えれば、「美」に対する感覚は一方でエロティシズムと結びつき、個人の中に深く根を降ろしている。それはもちろん、現在主流の「美なるもの」と時々ずれる。
というより、個人の美の基準は、「それ」を見た後に「ああ私はこれを美しいと感じるのだ」という感得によって、その都度作られる。
故に、何が本当に美しいのか、私はまだ知らないことになる。


(夏のtweetから抜粋してまとめ直しています。https://twitter.com/anatatachi_ohno