排外主義のテロはテロの名に値しないがそれはさておき(「シネマの女は最後に微笑む」更新されました)

映画から現代女性の姿をpickupする「シネマの女は最後に微笑む」第33回は、先日の東京マラソンのテロ警戒ぶりを枕に、ドイツ映画『女は二度決断する』(ファティ・アキン監督、2017)を取り上げています。
主人公が「最後に微笑」まないのですが、超絶重い内容なのに清々しいと言ってもいい後味が見事です。

 

排外主義とテロの被害者が最後に示す「倫理的」決断 - forbesJAPAN

 

女は二度決断する(字幕版)
 

 
原題は「Aus dem Nichts(どこからともなく)」。ドイツのイスラム系移民とネオナチ、排外主義といった社会背景は比較的あっさり描かれ、家族をテロで失った女性の孤独な闘いの方に密着した視点。ちょっとジェシカ・ラング似のダイアン・クルーガーが圧巻。音楽もとてもいいです。

 

ドイツではナチス時代への反省から亡命申請や移民に寛容ですが、2000〜07年にイスラム系移民を標的にした爆破テロが相次ぎました。当初はイスラム系内部の抗争と見られており、ネオナチグループの逮捕までに時間がかかったため、ドイツ警察における戦後最大の不祥事と言われています。この作品はその事件をモチーフにしているとのこと。

 

それにしても最近「テロ」という言葉がいろんなところで使われ過ぎな気がします。メシテロとかバイトテロとか。「metooはテロだ」と非難したフェミニストツイッターで見ました。
私はテロについては「標的は一般市民だが、内実は国家に対する威嚇・攻撃」という理解なので、排外主義者による外国人を狙った殺傷はテロの風上にも置けないと思っています(テキストのタイトルには使いましたが)。

 

排外主義者は大抵ナショナリストなので、国家を敵視していません。むしろ自分達が国家を守るのだと思っていそうです。しかし80年代までのテロリスト達は、国家権力あるいはそれが依存するところのグローバル資本主義を「敵」と見なしてきました。オウム真理教の事件を境に、何かが変わったのだと思います。

 

日本ではテロリストについて、「罪のない市民を狙う」という無差別殺傷行為の次元ばかりが強調されており、国家を敵視するという次元がスッポリ抜けています。それで「metooは冤罪を生むからテロ」なんていう明後日方向の屁理屈も出てくるのです。つまり日本は平和だということなんですかね。警戒心だけはやたら煽っていますが。