顔写真を考える

「近影」のココロ

「(著者・作家)近影」というのを見るのが好きだ。
有名な人だといかにも撮られ慣れてるなあという感じがするし、いつも同じ向きの人は「この角度に自信があるのかな」とか、視線を外しているのは「遠い目なんかしちゃって」、女性なら「近影?十年くらい前でしょ」などいろいろツッコミができて楽しい。
しかしそれが自分の身に降り掛かってくるとなると、話は別。 写真嫌いで被写体になることがほとんどない私だが、必要があってごくたまに自分の写真を提出せねばならない時は、頭が痛い。写真そのものがほとんどない、実物よりマシに撮ってくれる人が誰もいない、という理由もある。


今回は、8月に東京のクアトロガトスという劇団の清水さんの企画で、とあるシンポジウムに参加することとなり、急遽チラシ用の写真が必要になった。
できればデジタル画像でということだったので、誰かに撮ってもらって送ればいいのであるが、そのためのフォトジェニックな化粧やら痩せて見えるアングルの研究やらも面倒だったので、2、3年前ある美術作家の作品に「出演」した時のプロジェクターで投影された映像の画像を送った。
そのことを宮田さんに話したら、話し終わるか終わらないうちに「またそういうずるいことを!」と一喝された。「ずるい」とは「3年くらい前」に対してである。女の顔も40を過ぎると刻一刻と老化の一途を辿るので、たかが2、3年前の写真でも重大な詐欺に当るという意味である。返す言葉がない。


で、シンポに参加する他の皆さんはどんな顏写真を送ったのかと、興味津々でクアトロガトスのHPを覗いてみた。たいへん面白い。即座に言いたいことが2000字ほど浮かんだのだが、書くのが怖くて逡巡していた。
それを内輪の掲示板に書いたら、参加者の一人の中西Bさんが「皮肉じゃなく書いた方が面白いと思います。書くことは何であっても怖いことだと思いますし」というレスをつけて下さった。確かにその通りだ。なのでその言葉に励まされて、こわごわ書いてみることにする。
ここにアクセスされて、それぞれの参加者の顔写真をじっくり見ながら読まれますように。

「廃業調査会」の3人の顔

海上宏美
何の衒いもない、とても普通の写真である。写っているのは、紛れもない海上さん(当たり前だ)。
しかしこの平常さ、当たり前さ加減は出そうと思って出せるものではない。大抵は、ちょっとアングルを工夫したり、さりげなくカッコつけてみたがるところである。しかし海上さんに限って、そういうことは一切ない。 「顔写真なんだから、顔を正面から撮ればそれでよい」である。とりつくシマなし。
これで終わりではなんなので、もう少しよく見てみると、後ろに写っているのはどうやらカーテンのようだ。カーテンの上の方のタックが写っている。ということは、イスの上に乗っているのでもない限り、海上さんはかなり背の高い人だということがわかる。
その身長が軽く180くらいはあろうかという、50才前にして既に「わたしは300年生きてきたのだよ」というような風貌(おじいさんに見えるということではありません)の人が、不敵な笑みを浮かべている。「面構え」というに相応しい。
腰にぐるりとダイナマイトを巻きつけ、背中に「天誅を下す!」という貼り紙を貼って立っていたとしても、不思議ではないと思わせる。そのカーテンが警察署の取り調べ室のカーテンで、手には手錠をかけられていたとしても、全然不思議ではない。仮に足下に半裸の叶姉妹が横たわり、カメラの後ろで100人のゴスロリ浴衣が盆踊りを踊っていたとしても、海上さんの不敵な笑みは微動だにしない。
いつからそのような「平常」にして「不動」を体得されたのか、聞いてみたい。


大野左紀子
暇を持て余した主婦。実際そういう「役」だったので仕方ない。ビデオカメラのこっちでは某アーティストが「退屈だわ。なんか面白いことないかしら。あらもう4時。今晩のおかずどうしようかしら」とか言っていて、その言葉通りの表情と動作を作るというのが、この時私に与えられた役目だったのである。
問題は、一部をトリミングしているこの写真が、壁に投影されたプロジェクターの映像を斜め45度くらいから撮ったものなので、被写体がちょっとスマートに見えるということである。体型詐欺。年齢詐欺と並んで重罪である。しかも写真がいい具合いにボケており、実物を知らない人には、もしかして和風プチ美人?と誤解させないでもない微妙さが。
やばい。今からシンポまでに、この外見に近いとこまで若返り&ダイエットする自信はない。いったいどのツラ下げて東京行くのか私は。
そういうわけなので当日、チラシの写真とは別人の女が登場しても、お客さんはあまり怒らないで頂きたい(またそういう言い訳ばっかり!by宮田)。


清田友則
怖い写真である。清田さんの顔もちょっと怖いのだが、それはもともとなので問題ない。怖いのは、「この写真に写っていないもの」である。カメラのフレームの外、清田さんの視線の方向の先に、「何かとてつもなく恐ろしいもの」がいたに違いない‥‥。
冗談は措いといて、清田さんはいかにも凛々しい九州男児の顔をなさっており、別に怒っていなくても通常の表情は険しく眼光が鋭い。目のフレームの中で、黒目が常に90%以上見えている。つまりいつもカッと何かを見つめている、というか何かを発見してしまった者の目なのである。
私のように黒目が常に半分ほど瞼に隠れた、眠たそうな目とは対極にあるような眼差し。この目に約180センチの高さから射すくめられると、大抵の人は恐怖を覚えると思う。
だからこの写真も、清田さんが自宅でくつろいでいる時、部屋の隅に自分のドッペルゲンガーを見て固まったところを、宮田さんが素早く撮ったものではなく、清田さんのいつものお顔である。
御本人は我々のHP掲示板で「へんにきどっていてだめですね」と冷静な自己評価を下されていたが、清田さんの目ヂカラが100%出ているかというともう一つである。私が撮影者だったら、あと30センチくらい寄って視線をこっちにもらって撮っただろう。泣く子も黙るような写真が撮れたと思う。

東京方面の人々の顔

内野儀
キッと結んだ口元と、ひたとこちらを見据えた眼。なんというか、食らいついたらテコでも離しませんよ、でもバカな発言は無視しますよという、静かな気迫が伝わってくるような、論争型インテリのお顔である。写真を撮られる時に、自然とこういう顔のできる人がうらやましい。
内野氏は御著書もいくつかあり、今回の参加者の中で今のところ一番著名な方なので、写真も撮られ慣れておられるのかもしれない。
ところで、若手〜中堅批評家とか論壇の人には眼鏡インテリが多いと言う。それも押し出し体型。福田和也しかり大塚英志しかり。見たとこ太ってないのは宮台真司くらいなものとか。
やはり長時間の論争に耐えるには、エネルギーを蓄積できる身体でないと駄目なのか、売れっ子批評家は美味しいものばかり食べているので蓄積されるのかわからないが、その伝でいくと、内野氏は立派な論壇の人だ。太っておられるようには見えないが、押しも押されもせぬという骨太の貫禄は、顔写真からでもわかる。
‥‥どうもあらかじめ情報がインプットされていると、想像力が羽ばたかなくていけない。
ということで、お衣装に注目してみたい。チェックのシャツがお似合いである。これで登山帽を被っておられたら、ワンゲルのOBだ。いやワンゲルなんて軟弱なのではなく、山岳部。学生時代は、毎日東大の赤レンガにピッケル打ち付けて登っていた鬼主将。山岳部だからやっぱりエネルギー蓄積型なのだ。
「廃業」だろうが何だろうが、どこからでもかかってこい!という闘争的で頼れる感じは、東大生にも人気なのではないかと推測される。


●中西B氏
鉄道マニアが念願の撮影を終えてVサインをしているところ。もし三脚持っていたら、たぶんそれ以外には見えない。 強いて別の例をあげれば、マンガおたくのコミケ帰り。掘り出しものいっぱい見つけたよ、ピースという感じだ。
好ましい写真とは、このようなものを言うのであろう。「不敵な笑み」「謎の主婦」「恐怖の人」「山岳部鬼主将」と続いてきて、この写真のところで誰しもほっとする。明るい戸外というのが、また良いシチュエーションだ。「わざわざこのために撮りました」感がまったくないのも、見る者の警戒心を解く。
笑顔といい、ポーズといい、ショルダーバッグといい、肩の力が抜けたいい味が出ている。この味を出すには生半な年期ではないと思わせるコナレた感じ。
これなら、お見合い写真のスナップに使えると思う。温厚な趣味人で子供にもやさしそう(あくまで写真の印象)で好感度大。「中学以降ひねくれて育って、この十年は何もせずに鬱だ鬱だと言い訳してのらくらしていた」人には、全然見えない。
実際は、徹夜の議論明けのスナップだそうだ。そこを突然撮られて、うっかりピースサイン。疲れている時の「うっかり」には、その人の本来の姿が滲み出るものであるから、中西Bさんはきっといい人なんだと思う。


●森下貴史氏
これから舞台化粧に入る前の歌舞伎の女形。もし着物の襟元が写っていたら、たぶんそれ以外には見えない。
それにしても思いきってがぶり寄ったカメラである。上の人と10倍近く顔の大きさが違う。同じ伏し目でも私とは異なり、ここまで寄って撮られても大丈夫な容貌および年齢である森下氏。うらやましい。
しかし普通黒目を人に見せないというのは、何か良からぬことを考えている証拠である。女形の冷たい美貌の下に隠れた邪悪な思念。上の温厚な鉄道マニアと仲が良さそうなのだが、いったいどうゆう接点があるのか、余人には伺い知ることができない。
反抗している学生にも見える。森下さんは大学生なので「見える」というのはおかしいが、この写真では高校生である。あまりにも脳無しな教師に呆れ果て、指されても無視して憮然としている早熟でヒネた高校生。
「森下、君を指しているんだぞ。早く答えなさい」
「くっだらねえ授業ばっかりしやがって。誰が答えてやるもんか」(心の声)
「なんだそのフテくされた態度は。なんとか言ったらどうだ」
「うぜーなあ、教頭のケツでも舐めてろ、犬!」(心の声)
「いつからそんなふうになったんだろうね君は(嘆)。何か悪い思想にでもかぶれているのか? 放課後生徒相談室に来るように」
「フン、行くかよバーカ!」(心の声)‥‥てな感じ。


●CUATRO GATOS
巨大迷路で迷って途方に暮れているパナウェーブの人々、ではない。きっとクアトロガトスの上演中の写真ではないかと思う。だから写っているのは俳優達で、演出家の清水さんはここにいない。
しかしシンポに参加するのは、清水さんであって俳優達ではないのだから、この企画の「参加者」というコンテンツには則していない写真ということになろう。清水さんが写っていないのは「ずるい」と、中西Bさんも先の掲示板で言っている。私もなんとなくそんな気がする。いくらクアトロガトス=清水さんであっても、これを見た人はがっかりすると思う。
なぜだろうと推測するに、清水さんのアイデンティティはあくまでクアトロガトスに集約されているので、御自分の顔写真を単独で出す習慣がない。自分の顔写真出しても、プロフィールはクアトロガトスのプロフィールなので、それだと俳優、スタッフ達に申し訳ないような気がする。それに今回は企画者でシンポも進行役ということなので、あんまり自分の顔を出すのも何だし。‥‥みたいなことだろうか。
でもこれって、美術作家が展覧会のチラシに載せる顔写真をと言われて、一人だけ作品写真を出すようなものである。ダ・ヴィンチが自分の肖像として、モナリザ出すようなもの。デュシャンが自分の顔写真として、サイン入り便器の写真出すようなもの(違うかな)。やっぱり何か腑に落ちない。

顔写真を巡る煩悩

以上、シンポの前知識としては何の役にも立っていないが、完全的外れということもないと思う。
ちなみに、中西B氏と森下氏とは一度御会いしただけである。清水氏とは二、三度。内野氏は二度ほどシンポジウムで客席から拝見したが面識はない。「廃業調査会」の3人は、前から時々顔を合わせている。知っている度合いが、文章に多少影響を与えたのは否めない(皆様無礼はどうぞお許し下さいまし)。


言うまでもないが、顔ですべては判断できない。ましてや写真では。
しかし顔写真に自意識が出るのは確かだと思う。しかも本人の提出した写真であるから、そこには「これが私の顔である」という本人の認識が宿っている。
一方で、どうしても自分の顔だとは思いたくないような写真というものもあるのだ。思いがけず気を抜いている時(口を開けて寝ているとか)に撮られた自然過ぎる写真とか、逆に過剰に意識している時の不自然な写真がそういうものになる。
そんな写真は一切ない、すべて自分のありのままの顔として認め、他人の目にも晒して平気という境地に立つには、強靱な内面が構築されているか、どんなマヌケ面撮られても美男美女に写る人でない限り難しい。


自分の顔は一つしかないが、その一つしかない自分の顔も常に変化している。生きている限り厳密には、一時として同じであることはない。毎日一時として同じではないその顔に、ある同一性を見い出し、自己との同一性をなんとか図っているのが、顔との普通のつき合い方だ。
顔写真は、変化する顔と自己認識との境目にあるような物だ。


そこへ行くと思い出されるのは、マイケル・ジャクソンである。顔とのつき合い方を踏み外したために、常軌を逸してしまったマイケルの顔。どう見ても白人になり損ねたのは確かだが、年齢も性別も不祥になってしまった顔。
なぜそこまでになったかということはいろいろ言われているが、一番はっきりしていることは、マイケルが圧倒的に写真に撮られる側の人だということだ。写真写りはスターにとって、自分はスターだという認識を持続させるために欠かすことのできないような鏡。その自惚れ鏡の中から、彼は出られなくなってしまったのだろうと思う。


しかしそれを私は笑えないのだ。スターでもない一般人のくせに、少しでも若くスマートに見られたいという抜き難い業が露骨なまでに出ている写真を送った私が、マイケルを笑えるわけがない。


あと一人浮かぶのは、中村うさぎである。美容整形前と後の顔と裸の写真を女性セブン誌グラビアに公開し、整形女のコンプレックスを自らの身をもって表現するという離れ業をやってのけた。彼女は私と同世代だが、「私は老いを素直には受け入れない、どこまでも足掻いてやる」と言い放っている。
しかしこの胆の座りぶりは、女の業を芸にしメシの種にしてしまえる立場を確保できているからであろう。普通の女はここまで貪欲になることも、開き直ることもできない。そして、チラシの小さい写真一枚出すのに、どうでもいい煩悩に苛まれる。
この業を「廃業」できるのはいつのことか。