自由と自己顕示

浮いてる種目

いい加減オリンピック報道を見るのも飽きてきたが、夫は仕事が休みなのをいいことに、アテネ時間に合わせて生活スタイルを変え、昼間寝て夜中起きている模様。
先日も「おお」という声が聞こえてきたので何事かと思ったら、女子ビーチバレーを見ていた。正確には女子ビーチバレーの選手のカラダ。 観賞目的なので、勝負はどうでもいいらしい。
女子柔道の金メダルラッシュについては?
「ブスに希望を与えとる」
‥‥身も蓋もない言い方で片付けるなよ。


さて、「観賞」は別として、ビーチバレーは今一つつまんない競技である。
息詰まるバトルシーンがあちこちで繰り広げられている(らしい)中で、ビーチバレーだけは見たとこ、なんか楽しく遊んでいるような感じ。他の競技に比べ、なんとなく真剣味が足りないように見える。ネットを挟んでのダブルスというと、他にテニス、バドミントン、卓球があるが、それらの競技に感じられる緊張感が、あまり伝わってこない。
その原因が、もともとレジャーシーンから始まったスポーツだからなのか、サンバイザーにビキニというあまり戦闘的でないスタイルだからなのか、オリンピック競技種目になってからまだ回を重ねてないので、こちらの目が慣れていないためなのかはわからない。


海水浴した後で試合をするのではないので、別に水着でなくても、体操着でも何でも動きやすければいいんじゃないかと思うのだが、女子ビーチバレー選手は皆判で押したようにビキニである。これは規定だろうか。
夫によれば、「イタリアのビキニはハイレグでよかった。日本はちょっと甘い」。そういうとこしか見てない観客がいることを、ビーチバレー協会の人は知っているのだろうか。
ビキニ着て砂まみれになって、やってることはバレーと同じでも、バレーよりはよほど楽しそうだが実際どうなのだろう。 ビキニ、砂まみれときたら、ビーチバレー以外では「グラビアアイドルのハワイロケ」くらいしか思いつかない。


かつて、日本から初めて女子ビーチバレーの選手としてオリンピックに出た二人は、元女子バレー選手だったそうだ。
当時は国内でもまだマイナーなスポーツで、コーチも監督もいない頃である。花形である日本女子バレーから、オリンピック種目として採用されたばかりのビーチバレーなんかに、彼女達はなぜ方向転換したのか? 
その理由を最近になって知り、私は心から深く納得した。
理由その1、監督にシゴかれたくなかった。
理由その2、目立ちたかった。
スポーツ選手ともあろうものが何をフザけたこと言ってるのか、と思った人は、「女」というものをわかってない。

女子バレーの男尊女卑

スポーツ選手に女性は増えたが、指導者には少ない。アテネ五輪に出場している五つの女子団体球技のうち、女性監督はソフトボールの宇津木監督だけ。
日本女子バレーも、「東洋の魔女」と言われた東京オリンピックの頃からずっと、監督は男(オッサン)と決まっている。「東洋の魔女」時代の、「鬼の大松」と言われた大松博文監督の「黙って俺についてこい」は、有名な台詞である。今だったら流行語大賞になるくらい、流行ったらしい。
「黙って俺に‥‥」で、黙ってついていくのは女である。男が女を黙らせ従えている。
今そんなアナクロなこと言ったら、誰もついてこない。しかし日本女子バレーの監督じゃなくても、高度経済成長期の当時の日本の男には「自信」があり、男女の権力関係がそんなに疑われていなかったから、この文句は浸透したのである。


話が逸れたが、いずれにしても女子バレーと言うと、そういうスパルタオヤジみたいな超厳しい監督の元で、涙をこらえながら歯をくいしばって頑張る、というイメージが定着してきたと思う。スポ根ものの人気アニメ『アタックNo.1』のテーマソング(♪苦しくったって〜悲しくたって、コートの中では平気なの)の中にも、「だけど涙が出ちゃう、だって女の子だもん」(ここは歌わないでセリフとして言う)という文句があった。
ちなみに『アタックNo.1』の放映は私が小学生の頃(69年頃)だが、当時は活発な女の子と言えば、放課後は猫も酌しも黄色い声を張り上げて、バレーボールをやっていた。頭バカでも性格悪くても、バレーの上手い女の子がクラスでは幅をきかせていた。嫌な時代であった。


それはともかく、中年男に監督というだけでデカイ顔をされ、親にも言われたことのない罵倒を受けても、すべて「ハイ!」の一言で耐えねばならないのが女子バレーの世界。かなり倒錯的な世界である。
監督だって虐めてるつもりじゃないのだろうが、選手にしてみれば、いや観客からしてみれば、鬼監督の苛酷なシゴキに耐えて耐えて耐え抜いて涙の勝利を掴み取る、という構図に見える。「ハイ!」に被虐的メンタリティすら感じてしまう。ほとんどSMの世界である。


スポーツとはそういうものだという縛りが強く働いているうちは、それでもよかった。
しかしそうした「主従関係」にどうにも我慢ならなくなり、なんでこんなオヤジの言うことをハイハイ聞かねばならないの?と思ったが最後、甘美なSMワールドは崩壊する。

ビーチバレーの女心

バレーボールは6人編成である。正規と補欠、ベテランと新米、波に乗ってる選手と低迷している選手。チームの中には、目に見えない階級がある。仲良さそうに見えても、ライバル光線がビシバシ飛び交っているであろう。
階級の頂点に君臨する監督が男ならば余計に、あの人だけ贔屓されちゃってとか、ドロドロした嫉妬や駆け引きもあったかもしれない。


しかもユニフォームときたら、高校の体操着に毛の生えたような、味もそっけもないやつ。襟元からちょっとネックレスを覗かせたりミサンガを着けたくらいでは、ちっとも「女」をアピールできない。
水泳やシンクロの選手は、見事な肢体をピタッと水着に包みセクシーでカッコいいが、女子バレーはどこか泥臭い。
そして過去の栄光を背負う日本女子バレーは、とにかく苦しい。過剰な期待をされ、常にプレッシャーが重い。そんな中で、恐ろしいオヤジに毎日シゴかれるのは、うんざりである。集団プレーも飽き飽きした。
でもバレーボールはやりたいし。というかバレーボールしかできないし。


そう思っていたところに、日本では正式チームも監督もまだ誕生していないマイナースポーツ、二人編成のビーチバレーがあった。
たった二人で自由に仕切れて、鍛え上げた自慢のカラダをビキニ姿で見せられて、一人当たりの注目度はバレーの三倍。いいことづくめである。
女子バレーのユニフォーム姿に萌えるという男はいようが、釘付け度ではビキニの方が上である。なんとなくジトッとした暑苦しいバレーより、太陽と砂浜とこんがり小麦肌のビーチバレーの方が、イメージも明るく爽やかだ。
女子バレーは負けたらがっくり肩を落として涙、涙だが、ビーチバレーはあっけらかんとその場で缶ビールでも飲み出しそうな感じ。


こうして日本の女子ビーチバレーの歴史は、元バレー選手二人の「自由と自己顕示」への欲求からスタートした。命令管理されるのが嫌で、集団行動に我慢できない目立ちたがりの女子選手の希望に、それは全面的に叶うスポーツであった。
元バレ−選手がビーチバレーに移った「理由」は、日本女子バレーが構造的に抱えてきた、監督−選手という形で体現される男女の権力関係を、結果的に浮き彫りにすることにもなった。
バレー選手からモデルに転身し女優になった江角マキコも、ケガが契機とは言っているがどうだろうか。もうオヤジ監督に虐められたくないわ、もっと一人で目立ちたいわで、そっち方面に行ったのではないだろうか。


しかし、世の中なかなか思惑通りに行かないものである。
男監督が女子達を旧態依然としたスパルタでシゴくという図も流行らなくなった今、選手は昔よりは伸び伸びやっていそうに見える。メディアでは、可愛い若手選手がアイドル並みの扱いである。凛々しいベテラン選手には、ファンの女の子達がワーキャー言っている。
それに比べてビーチバレーは、オリンピックではまだまだ競技としての影が薄く、全体的な盛り上がりに欠ける。選手の扱われ方もバレーボールには遠く及ばない。男の視線は一時的に釘付けにしても、真剣に応援してくれているのかどうかは疑問。普通のギャラリーはやっぱり、女子バレーに持っていかれてるのが現状だ。


はっきり言ってビーチバレーなど、あってもなくてもいいような存在‥‥。
どこにおいても、自由を手に入れ尚かつ自己顕示欲を満たすのは、かなり大変なことである。


ところで、北朝鮮では女子ビーチバレーの試合の模様がすべて、国営放送の特番で放映されてるそうである。北朝鮮のチームなんかないのに、どうして? 
もちろん将軍様の命令。将軍様が砂まみれのビキニ見たいから!