続・共学別学論争

男女平等という困難

女子校や女子大が「自由な世界」であった(こちらの記事参照)ということは、その分、社会がジェンダーバイアスに覆われているということである。
たとえば共学(社会に近い状態)では、男子がリーダー役になりやすい。共学の中学、高校の生徒会長の八割は男子だそうだ。それに近い現象がいたるところで起こる原因は、男社会の成り立ちに求められるが、ではそういう社会になった原因は? 性差別の起源を決定することは難しい。
しかし少なくとも、セックスの様態にはそれが如実に現れていると私は思う。


つまり、セックス(性器の違い、性交、妊娠、出産という現象)がある限り、放っておけば男性優位になるということ。
たとえば性器の違いがあるので、性交は基本的に男の"能動性"に依っている。男はペニスの挿入だけで快感を得られることが多いが女はそうではない。女が妊娠、出産、育児を引き受けている間に男はさまざまな活動が可能。体力知力の増強も可能。
(種の保存を究極目標とする)セックスにおいて男女はどこまでも非対称、不平等だ。
女に対するさまざまな性的技巧が編み出されたり、「母性愛」が讃えられたり、レディファーストや「女性のお客様ご優待」があるのはすべて、その絶対的な上下関係を、「下」の者が受け入れやすくするためである。


「どうして昔から女に偉大な作曲家も建築家もシェフもいないの? 社会的な差別があったからってのはなし。ほんとになろうと思ったらなれたはず」
と男性に言われたことがある。もともと女には創造力が欠けていたと言いたいのである。つまり「ちんちんがついている方が偉大なのだ」と。
しかし、ちんちんがついている、というだけで優位を感じられる人はいるんだろうなということは、なんとなくわかる。
私は子どもの頃、立ちションできる男の子がうらやましかった。オシッコする時でさえ男は女を見下ろせる態勢。女はしゃがんで見上げる態勢。なんで? 
女にもできるかもしれないと思い、家の男性用便器で無理矢理立ちションしてみようとして失敗した(6歳くらいの時)。


こういうことを言うと、男性優位社会を生物学的に根拠づけようとする性差別者の意見だとされるかもしれないが、そうではない。生物学的な事実を見ることと、それに依拠して性差別を正当化することとは、別である。
ジェンダーは、男女の上下関係を変えられない「宿命」として受け入れよう(受け入れさせよう)とする心理と行動を指す言葉でもあるが、社会形態や考え方が変われば、ジェンダーがなくなるというものではない。極論すれば、二つの性が共存し、セックスがある限り、原理的にはなくならない。
だから、男女平等の理由を「男と女は生まれながらにして同じ人間だから」と言うのはおかしい。だいたいそれでは、何か言っていることにはならない。そう教えるから、いろんなところで齟齬や矛盾が生じてくるのだ。
「生まれながらにして」なら、つまり自然のままに放っておけば、力で女をレイプできるし、力で男社会を作れるではないか。それで男は「偉大」な位置を占めてきたではないか。
男女のセックスの「宿命」的なあり方を利用することによって、権力関係は決定されてきたということを、まず押さえる必要がある。


そこで、「だからと言ってそれを放っておいていいのか?」ということで、平等思想が生まれたのである。男女平等とは、「男女が平等であったことを見出した」思想ではなく、「男女が不平等である宿命に逆らう」思想。「上」にいる者は「上」に居座ることに、「下」にいる者は「下」で甘んじることに逆らう。
「だからと言って〜いいのか?」という疑問形の部分が、ヒトの知性と言われるものだ。「宿命」に何の疑いも持たないのは動物である。


しかし人間、知性や思想だけで生きるのは難しい。セックスを知り、ジェンダーが刻印されてきたと実感してしまった後では、余計に難しい。
それで「女にはレイプ願望がある」などという考えも生まれるし、スーフリや京大アメフト部の事件も起こる。「男の言う通りにしといて、おいしいとこだけもらいたい」と思う女も、いなくならない。
だから「男女平等なんて、もう当たり前」と安易に言うべきではないのだ。当たり前にするには、セックスを根源とする男女の上下関係の宿命を背負いつつ、それに永遠に逆い続ける努力が必要。大変なことである。

欲求不満と疲労困憊

さて以上を踏まえると、共学で、何かにつけて男だ女だ言っていてはいけないとかの教育効果を上げるのが、いかに難しいかということになる。性器の違いを知り、異性に性欲を覚え始める(たまに同性)思春期の子どもにとって、「何かにつけて男だ女だ言うこと」は普通のこと。
中学生になりたてくらいの男女には、「女はうるさくてバカだ」とか「でも女の子に興味津々なのを隠したい」とか「男って乱暴で不潔」とか「でもカッコいい男子には可愛いと思われたい」とかの様々な思いが千々に乱れている。
異性の存在に刺激されて言動がギクシャクしてしまうところに、一律に「男と女は生まれながらにして‥‥」などと刷り込んでも、馬の耳に念仏だ。


もちろん異性との接触が普段なくても、妄想を掻き立てるメディアの情報は入ってくる。それは共学でも別学でも同じことだ。
今度中一になる私の姪は、ジャニーズの手越君が早稲田大学に合格したというだけで、将来早稲田に入りたいと言っているそうだ。勉強のモチベーションは、手越君と同じになること。
どんなに恋愛経験を重ねても、女への妄想の虜になっている男もいる。それは今さらどうしようもない。


単性の環境を準備すれば、少なくともそこでは、異性を意識したふるまいは生まれない、というのが前の記事の話であった。異性を意識しないふるまいの積み重ねは、異性に依存しない精神状態と行動様式を作っていくだろうと。
中学からそれが作られていくとすると、その期間は高卒では六年間、短大卒では八年間、四年制大学卒では十年間、大学院卒では十二年間に及ぶ。
Yさんの提案に従って大学までと考えてみる。
たとえば、学校に通った十年間、回りがみんな英語を喋るので自然に話すようになった人と、授業を受けるだけで済ませた人との英会話力の違いは、おそらく歴然としているはずだ。環境は人を作る。
世の中では、男と比較して女の方が、自分のセックスの様態を意識せざるを得ない場面が多い。だから別学の効果は(良かれ悪しかれ)、おそらく女子の方に顕著だろうと思われる(男子校については、よくわからない)。


しかし十年間、自分を素直に出してのびのび過ごしてきた女子や、「女のくせに」「女だから」と言われたり思ったりしないできた女子は、社会に出た時、「なぜ?」「やりにくいな」と思う場面が多いだろう。ジェンダーバイアスのかかった社会は、単性の環境で育った女の自尊心を傷つけるかもしれない。
男子とうまくやることを身につけた共学の女子は、その点有利。可愛いければ一目置かれるし、男に最終的な勝ちを譲ったり、男より面白いギャグは言わない方が好かれるのも実感として知っている。
まあそんな女ばかりだったら、共学出身者は全員救いようのないバカ者ということになるので、"可愛げ"のない女子は、男子から無視、排斥されることがあると付け加えたい。


いずれにしても、「男なんてこんなもんでしょ」という悟り、「男っていいなあ」という僻み、「女だから仕方ない」という諦めを持たされがちなのは、相対的に別学より共学であろう。「男に負けるもんか」というクソ意地も育つ反面、男ウケ体質も育成されやすい。いろんな意味で共学の女子は"賢く"なる。
同性の中でのふるまいを異性に対しても変えない女子と、悟りや僻みや諦めや男ウケで接する女子。
あるいは「男がいなくても楽しく過ごせる」女子と、「男がいないとイキイキしない」女子。
別学出身者と共学出身者がそんなにきれいに分けられるわけではないが、後者が多ければ多いほど男女の関係は「宿命」に支配され、男女平等は遠のくことになる。


では、前者が増えれば? 女に失望する男と、男に失望する女が、大量生産される。
だってそうでしょう。男の妄想のようにふるまうことを知らない女が、普通の男を幻滅させるのは仕方ないし、そういう男に女が興味をもたなくなるのもやむを得ない。
かくして、男女の間の溝は深まる。溝を深めたままでいることはできないので、なんとか歩み寄ろうとし、喧嘩を重ね疲労困憊する。
さらに、多くの女子が別学を選ぶようになると、共学に行く女子はどんどん紅一点状態に近くなり、孤立して辛酸を味わうかチヤホヤされて増長する。
やがて、どうしても男にチヤホヤされたい救いようのない女子だけが共学に行くようになり、まともな男子は女子に失望、男女の溝は一層深刻に。


つまり、「宿命」を受け入れて適度に不平等に甘んじ欲求不満を溜め込むか、「宿命」に逆らって疲労困憊したり失望したりするかの、二者択一が迫られるのである。
どっちにしても、大変なことである。


さて、少し観念的な話が続いたので、次回は私の"楽しい共学時代"を振り返ってみる。