負けた美人の起死回生

女の仕事の不文律

谷亮子の言動への違和感の根が、「美人ではない」ということであったという結論を得て、うっすらとやりきれない気分になっている私である。って、お前が書いたんだろうが。それでも、やりきれないものはやりきれない。
彼女がどこから見ても美人であったら、あそこまで頑にファイティング・ポーズ(セクシー系含む)をとり続けることもなかったろうに。もっと余裕かませたろうに。何をやっても嫉妬と羨望の眼差しで見られたろうに。無意識の中にある「一抹の不安定要素」が、谷亮子を「ちょっとヤな女」にしてしまった(のか)。いやもともと柔道などをする女は、抜き難いコンプレックスと闘う宿命にある(のか)。←偏見です。


先程五輪スペシャル番組で、さんまとトークしていた。「赤ちゃんは?」という問いに、「それもいいですねえ」とそつのない受け答え。夫の「感動の涙」には「うれしかった、泣かしたーと」。「泣かした」か。この一言に彼女の生き方が集約されている。
この先は、五輪三連覇でも五連覇でも成し遂げて、いろんな意味で「前人未踏」のポジションからの転落を今か今かと待っている、邪な世間の目を見返してほしい。五輪五連覇したら、彼女は36。違う40だ。いや亮子ならできる。子供なんか産んでる暇はないよ。


ところで強引に話を変えるが、女性のアナウンサーが美人だの胸がでかいのという点で、ここまで云々されるようになったのはいつ頃からだろうか。女子アナブームはバブルの頃? 
もういつからだったかすっかり忘れてしまったが、女子アナはタレントであるという認識はすっかり定着しており、オヤジ向け週刊誌も女性週刊誌も、定期的にこの話題を出す。
一部のエリートアナや女性キャスターには、腹立たしいことこの上ない事態だと思うが、安藤優子小宮悦子だって美人なんだから、そういう意味では誰しも女子アナ=美人の構図の上に乗っかった存在なわけである。彼女達ほど優秀ではない女子アナならば、ニュースの読み方やコメントの仕方より、顔とスタイルがどうか?という点のみで「採点」されるのは避けられない。


そもそもテレビに登場する女というのは、「美人かブスか」という、もう我々のDNAに刻み付けられているのではないかと思えるような価値判断に常に晒されている。
もちろん同じ能力才能があるなら、見ている分には美人に越したことはない。これがテレビ業界のみならず、あらゆる業界においての不文律である。韓国では就職試験前に美容整形を受けるのが普通というのも、こうした事態を反映している。
「ガラスの天井」と並んで女性が闘いを余儀無くされるのは、容貌というスタートライン以下のスタートライン。テレビなら視聴率がかかっているから、なおさらのことである。

台風リポート

たまに地方局で比較的地味な顔の女子アナウンサーが出ていたりすると、「なんでこんなぱっとしない人がニュース読んでるの」といった反応すらしてしまう視聴者。
美人だが原稿読みもコメントもイマイチな人に対して、「なんでこんな下手糞な奴がニュース読んでるの」という疑問は、もうない。答は「美人だから」と誰もが知っている。この不文律が、キャスターやアナウンサーだけでなく、末端リポーターにまで浸透しているのは言うまでもない。


よく台風情報で、荒れ狂う風雨の中、透明レインコートで武装した女性リポーターが必死で現場報告するというシーンがある。
いつも疑問に思うのは、「もう傘が役に立ちません!わっスゴーイ風!」とか「ずぶ濡れです!吹き飛ばされそうです!キャッ」とか言うことに、一体何の意味があるのかということだ。あなたに説明されなくたってわかってるよ、と言いたい。
これは男性リポーターの場合も同じだが、女性の甲高い興奮した声を聞くと、一層そういうイライラが募る。この人必死だけど(必死を演出してるけど)、こんなところでしか使ってもらえないのだなあと気の毒にすらなってくる。
私の夫の反応はもっとダイレクトだ。
「下手なリポートなんかいいから、最初から水着で出てこい。そんで水着のブラジャー吹き飛ばされてキャーとか言ってみろ。 水着が嫌ならスカートまくれてキャーでもいいわ。ちょっと顔がいいから出されてるだけだろ、あんなもん。そのくらいのパフォーマンスさせてみろや。使い方まちがっとる」
あんたねえ‥‥という言葉を私は呑み込んだ。リポーターとしての能力などほとんど差がないところで、おそらく外見で選ばれているだろうことは、別にテレビ局の人事担当の人に聞かなくても読めることだから。


テレビで美人バイオリニストや美人料理研究家などが出て来ても、彼の反応はストレートだ。
「美人って得だよな。美人ってだけでちやほやされるもんな。才能もあって美人だったら、世間がほっとかないよな。やっぱりなんだかんだ言っても、世の中美人の勝ちだわな」
そんな、私の顔をつくづく見ながら言わなくてもいいと思う。嫌がらせか。


夫に言わせれば、オリンピックの露出系女子競技(ユニフォームの面積が少ない競技)のテレビ放映は、男にとって「女のカラダを観賞するためにある」らしい。そんなことはないと思うが「男はみんなそう思って見ているに決まってる」そうだ。
「ブスには金しかない。金で初めて評価される。美人は銀でもいい。よくやったねえと言われる」
フェミニストに殺されそうなことを平気で口にする彼だが、私は今のところそれに対する有効な反論を思いつかない。もっていきようのない理不尽な思いだけが蓄積する。
「それを書きまくれば?」
うるさいな、もう書いてるわ。

スイカップの悲哀

ぽっと出のリポーターやアナウンサーからスタートして、美人だからちやほやされるのに甘えず、セクハラにもめげず研鑽を重ね、主役キャスターにまで昇りつめようと努力している女も、もちろんいよう。そういう女はどこの業界にも職場にもいる。
しかしここで問題にしたいのは、勘違いしてしまった女子アナと、それを喰いものにするテレビ局及びマスコミ。そういう例は嫌というほどあるらしいが、最近印象に残ったのは、「スイカップアナ」として有名になった元NHK山形契約アナウンサー、古瀬絵理である。


スイカップアナ」とは、安藤優子あたりが憤死しそうなはなはだ下品な表現であるが、要はバストが大きい観賞用女子アナということ。この話題を耳にした時、NHK地方局のアナウンサーであろうが何であろうが、男の見ているのは結局そういうところかと、今更脱力する気にもならなかった。
しかしその人気に舞い上がってしまったのか、その人気を利用して山形から中央に這い上がろうとしたのか、古瀬アナはこの春東京デビューした。
デビュー会見に臨みスーツ姿でアナウンサーとしての抱負を語る古瀬アナと、「なんで露出の少ない服なんだ?」「もっと胸を見せろ」という周囲の反応とのずれに、既にこの物語全体の破綻が見えていた。


週刊文春・夏の特大号の「その後」の記事を読むと、古瀬絵理はこの周囲の期待に応えようと努力したらしい。しかし「民放お披露目」となった『世界ウルルン滞在記』に一回出たきりで、あとは事実上干された状態。
文春が取材したテレビ制作会社関係者によれば、「ポルトガルでヤギの乳絞りに挑戦するシーンでは、間違ってオスの睾丸に触ってしまい、『タマ触っちゃった』と言ってみたり、現地の女性に推定Gカップの自らの胸を触らせてみたり‥‥。要するに"NHK出身"に期待する品のよさが感じられなかったのです」。


なんだとォ‥‥と古瀬絵理は呟いただろう。散々スイカップスイカップと囃し立てて、そういうセクシー要素を期待していたくせに、何が今頃「品の良さが感じられなかった」だ。せっかく期待に応えようと恥を忍んで頑張ったのに、そんな言われ方ってあんまりだわ‥‥。
私もあんまりだと思う。


しかし古瀬も甘い。甘いというか、馬鹿だ。「東京の女子アナタレント」というブランドに憧れての上京だったのは明らかだし、巨乳人気に便乗して、あわよくばテレビ業界で何かおいしい目にあいたいと思っていたはず。
しかしマスコミの下心に乗ったと見られるのは悔しいので、当初所属が噂されていたイエロー・キャブには行かず、オフィス・トゥー・ワンというキャスターばかりを擁する大手事務所に所属した。
にもかかわらず、デビューしょっぱなに見当はずれなサービスをして、皆を引かせてしまい、古瀬絵理=イタい、使えないという図式が成立することとなった。もうキャスター起用は望めない。

顔とカラダの使いみち

結局、本人の方針が一貫してなかったのである。そこそこ美人で胸も大きくて、契約社員とはいえNHKという名の「知性」も加味されてるから、私は「貴重なキャラ」として求められているのよね‥‥そういう低レベルなとこで思考がストップしてしまっている。
毎日テレビを眺めて「あー美人でスタイルがいいと、どこでも人気だよねえ」などと言っている、一般視聴者と同じ視線で仕事を考えていたのが、大きな間違いである。絵に描いたような、頭の悪いナルシー美人の失敗パターン。
美人に甘いテレビ局も、場を読めない人には厳しい。売り物は売るべきところで売らないといけないが、そこまでの細かい読みは彼女には無理だった。


しかしそういう間違いをさせてしまうだけの「罪作り」を、テレビも各種メディアも散々やってきたのだ。そっちの「罪」は断罪されず、ちょっと勘違いしていた女は、ここまで恥をかかされ仕事を干される。理不尽ではないか。


古瀬絵理をケナしたいんだか、同情しているんだか、よくわからない文になってきた。
増長した罰だよ、いい気味という気持ちと、さぞ悔しいだろうなあという気持ちが半々である。美人でもスイカップでもないが、「周囲(男)の思惑に無理して応えようとして地雷踏んだ女」というところでは、嫌々ながらも共感せざるをえないものがある。


今更、イエローキャブには行けない。NHK山形なんか死んでも戻りたくないだろう。今は山形で生活しながら、仕事がある時に上京しているという状態らしいが、それで食べていけるのだろうか。親元にいればできるかもしれないが、自活するのは難しいだろう。
東京で仕事して起死回生を狙いたいという野心があるのならそれはそれでいいことだけど、厳しいだろうなあ。もう26だし、どんどん若手は出てくるし。顔と胸以外に今のところアピールできるものがないし。
それでも彼女を東京に通わせているのは、「こんなことで逃げ出したくない」の一点だろうと思う。そこで、どういうキャスターになりたいか、どんな仕事をしたいかという明確なビジョンなどは、持てないのではないか。たとえ持てても、一旦立ちはだかった現実の壁は厚い。そんな我がままも言っていられないような身なんだから。


彼女が力尽きた時、たぶん「結婚」という受け皿が待っているだろう。そこに大人しく収まって、過去のことは悪夢だったと思うというのも手であるが、ストーリーとしては面白くない。
山形の民放局に拾われて、それなりにキャリアを積んでベテランアナウンサーとして大成するというのも、ありきたりだ。そんなことで自分を騙して満足しようとしても、心の奥底にはきっとしこりが残るだろう。


こうなったら、根本的に方針転換したらどうかと思う。もちろん「バストの大きい美人」というアピールポイントを、最大限に使うのがベストだ。
東京での仕事はそこそこにこなして、マスコミ関係の男という男を顔と胸を武器に篭絡し、思う存分恨みを果たして捨てていくという、ドラマチックな怨念系のストーリーがいい。それが唯一、美人な顔とカラダの使いみちだ。
世の中のバカな男は顔と胸しか見てないんだから、絵理ならきっとできる。そうしなければ、今の胸の内の暗雲は永久に晴れない。スイカップの賞味期限が切れないうちにトライしてほしい。