コミュニケーションの下手な女

アート系女子

コミュニケーション(恋愛篇)で記事を書いたら、20人近くにブックマークされていた(http://b.hatena.ne.jp/entry/www.absoluteweb.jp/ohno/?date=20060422)。私の記事の中では多い方。
それで改めてブログを巡回してみたら、皆さん(おもに「はてな」界隈)、コミュニケーションということについて、とても熱心に書いていたり意見交換していたりする。たぶん20代の人が多いのだろうが、この世代は私の世代(40代)とはまた違った意味で、コミュニケーションに敏感という印象。
私より上だと、まだ「思想」みたいなものが共通基盤として生きていて、そこでわりと大雑把なコミュニティが形成されたりしていたのだろうが、今の40代になると趣味嗜好、消費傾向を通しての結びつきの方が圧倒的に強い。
そしてもっと下になると、そういうコミュニティは更に細分化、タコツボ化したということになっている。タコツボ内での場所を確保しつつ、外ともうまくやっていく能力の開発が求められているわけである。


しかし世代を問わず、誰でも他人とのコミュニケーションに一度くらいは躓く。一度も躓いたことがなく、周囲とは常に良好な関係を保ってきた人というのを、私は信用しない。
いや、その対応(順応)能力の高さを尊敬すべきかもしれないが、「なぜあの人(or彼ら)は私を排除したのか」「なぜ私はあの人(or彼ら)を排除してしまったのか」と悩んだことのない人とは、お互いあまりいい友達になれないと思う。


言うまでもなく、私はコミュニケーション能力が低い子どもだった。
いわゆる人見知り、引っ込み思案で、そのくせ変に自尊心は高く一方でコンプレックスも強いという典型的パターン。小中学校の同級生の中で特別目立って浮いていたわけではないが、軽いいじめや無視に会ったり、疎外されているように感じることが時々あった。
それは家庭環境、親の教育方針のせいもあった。
私の家ではテレビのチャンネル権を父親がほぼ独占しており、見ていいのは基本的にニュースと教養番組だけ(たまに映画)。小中学生というとアイドルやテレビ番組の話題で盛り上がるものであるが、その話の輪に私は入れない。
と言っても親の目を盗んで見ていたりはするわけだが、レアなテレビ的ギャグに即座にテレビ的ギャグで返すという気の効いた「コミュニケーション」は無理。「あ、テレビ見てない人はダメだ」で終わりである。


で、私の逃避先は音楽とか絵とか読書になった。
みんなは休み時間に外でバレーボールなどに興じていたが、下手にバレーなんかやると突き指してピアノが弾けなくなるじゃないか、とか言い訳して、大抵教室でマンガ描いているか本読んでるだけ。
「オオノさんてば、こんなとこにいたの。ねえ、何読んでるの?」
「‥‥‥本」
「やだなあ(笑)、見ればわかるよ本は」
説明するのがめんどくさいの、「ナルニア国物語? ふーん面白いの、それ」と聞かれていちいち説明するのが。


嫌な子どもであった。流行りのアイドルやテレビの話題には加わらず、本ばっかり読んでて、四六時中ボーッとお話の世界に浸っていて、友達も当然少ない。
去年のユリイカ11月号やダ・ヴィンチ4月号の特集に見られるように、「文化系女子」とやらが最近モテているらしいが、「文化系女子小学生」はクラスの中ではモテない。
中学でもそれは同じだったが、「別に一人で平気です」バリアを張り巡らせるほどには強い内面が構築されてなかったので、なんとかあまり浮かないように気を遣っていた。自分に合うコミュニティというものが、どこにあるのかさっぱりわからなかった。


そういうことは、芸術系に進学してかなり解決された。
美術、芸術が私に与えたのは「安心感」と「安定感」。とりあえずは周辺の人々と何かを共有しているという感覚(実は多分に錯覚なのだが)は、「疎外」から私を守ってくれた。そのコミュニティの中でそこそこ認められれば、そこはかなり居心地のよい空間となる。
しかも「芸術」というのは水戸黄門の印籠に近く、「ふーん、アーティストか。何だか知らないけどすごいのかもしれない」と、文化系「外部」に対して煙幕を張る妙な力を持っている。
こうして私は、「文化系女子」の中の「アート系女子」という位置を確保した。
アート系女子に頭の悪い男は寄ってこない。
アート系女子に「女らしさ」や「気配り」はあまり求められない。
アート系女子が流行とは違うファッションをしていても、「個性」ということで容認される。
アート系女子は、そうでない女子の間の生々しい争いを涼しい顔で見ている(振りをする)ことができる。
アート系女子が非常識なことを口走っても、そういう種族だからと見逃される。
「アート系女子」という位置は、私にとってとても都合が良かった。

名前の呼び方

「アート系女子」の回りにいるのは、当然「アート系男子」である。
「会話男」もちょくちょくいるが、結構口下手な人も多い。作品がすべてを語っているということで、口下手なのは許される。むしろあまり弁舌さわやかな人は「アーティストらしくない」と見られるような傾向さえあった(今はそうでもないようだが)。
アート、芸術という狭いコミュニティ内で、そっち方面の仕事をし、そっち方面の人とばかりつき合う日々。飲みに行くのも、そっち方面の人ばかりいるところ。その外に出て行こうという必然性も勇気もモチベーションもなし。


しかし、結婚した相手は完全に「非アート系」の人であった。
なんでそんなことになったのかは省くが、「ふーん、アーティストか。何だか知らないけどすごいのかもしれない」という目線すら持ち合わせていない、「アート系」でも「文化系」でもない「理系+体育会系男子」。
「ゲイジュツってもうかるんか?」
それが彼の最初の質問だった。もうけるためにやっているんじゃない、と優等生的な答えをすると、
「じゃあ世の中の役に立つんか」
そんな質問に一言では答えられないよ。
いやたぶんそういうことをわかって、あえて尋ねていたのだ。私があまりにも「アート系女子」ゾーンに収まり返っていたので、ツッコミ入れたかったのだろう。
お互いの守備範囲が限られていたということもあろうが、興味の対象がことごとく違っていたのに、そういうことをあまり熟考せずさっさと結婚してしまった。
しかし異文化は衝突する。私がそれ以降、他者とのコミュニケーション能力を真剣に鍛えざるを得ないはめになったのは、異文化との結婚のせいである。


三年前に「アート系」をやめたので、「アーティスト」という呼ばれ方もアイデンティティもなくなった。
それはいいのだが、私がずっと気にかかっているのは、人に「奥さん」と呼ばれることである。
まあ顔見知り程度ならそれは仕方ない。夫関係の知人で私が普段通している旧姓で呼ぶ人はいるが、そこまでいかないごく軽い紹介の場合「こっちはうちのカミさん」「ども、はじめまして」でおしまい。それ以降、私は○○さんの奥さん。
そこであえて「お名前はなんと?」と尋ねる人はまれだから、こちらもあえて「×××××と申します」とは言いにくい。
特に、行きつけの食べ物屋のご主人に、これからわざわざ名乗るのもなんだかな‥‥。
時々行く和食屋さんの通称ツネさんと、最近私は結構親しくなったのだ。人付き合いの悪い私としてはかなり珍しいことである。
ツネさんはとてもキップのいい愉快なお人柄で、夫とは私以上に仲がいいが、一緒にご飯など食べに行っても私のことを呼ぶ時は「奥さん」。夫が私を「おみゃあさん」呼ばわりしていて、私の名前を知らないから。夫のことは「ちゃん」呼びなのに。


その店に一人でよく来る2歳くらい年上の女性が、なぜか私を気に入ってくれ、会うといつもお酒を奢って下さる。彼女はツネさんの友人で、トモコさんというので「トモちゃん」と呼ばれている。トモちゃんは独身の気だてのいい人で、私も夫も彼女が好きだ。まあそういう中で自分だけが「奥さん」と呼ばれている微妙な居心地の悪さを、私は感じるようになった。
それでこないだあまりお客のいない時に、ツネさんに言ってみた。
「トモコさんはトモちゃんて呼ばれてるじゃない? でも私は「奥さん」じゃない? それ、なんか嫌なのね。私もサキちゃんて呼ばれたいんだけど」
断っておくが、そんなずうずうしいことシラフで言ったのではない。ツネさんはニコニコして
「いいよ、じゃあこれからサキちゃんて呼ぼか」
と言った。


その後私は帰ったが、夫は看板までいてその後ツネさんやトモコさんとどっかに飲みに行った。そこで私の言ったことが話題になり、
「あんたがちゃんと名前を呼ばないからいかんのだよ」
と夫は言われたようだが、それより「サキちゃんて呼ばれたい」がバカウケしてしまったらしい。そんなにおかしかったかな。いや学生にそう呼ばれるのはちょっと困ります。私はただささやかな人間関係に、もっと溶け込みたいと思っただけ。
数日後、ツネさんのとこに顔を出したら、やたらと「サキちゃん」を連呼された。
トモコさんも普通に私をそう呼んでいて、その日は二人で中村うさぎと岩井志摩子の話で盛り上がった。47歳にして、初めて「文化系女子」でも「アート系女子」でもない飲み友達ができた。遅過ぎるのかもしれない。