恋愛ファシズム

ラブ・ハラスメント

昨夜、お笑いコンビの雨上がり決死隊がホストの番組「アメトーク」で、女お笑い芸人を集めて恋愛トークをやっていた。
そこで「恋愛ってのはー」と喋り出した森三中の村上(一番小柄で一番ふくよかな人)が、宮迫に「おまえ、バージンやがな!」と言われ、会場の笑いを買っていた。モテないことを売りにしている女芸人だから、この突っ込みは織り込み済みである。また、吉本の先輩である宮迫が、村上にそう言ってもいいというコンセンサスができている。
できていないと、これはセクハラかラブハラということになるかもしれない。


ラブハラ=ラブ・ハラスメント。恋愛経験のない人や恋愛について話したくない人の前で恋愛話をしたり、相手の恋愛経験について尋ねたりすることを指すようだ。
ハラスメントの成立条件は、受け手の主観に依るところが大きいので、同じ内容でも人によってハラスメントになる場合とならない場合があるのは、セクハラと同じである。どこまでがOKで、どこからがNGかは、相手との関係性、状況によって左右される。


さて、ラブハラで"被害者"となる恋愛経験がない人と一口で言っても、いろいろなケースがある。
恋人が欲しいと思っているが、何らかの問題が本人にあってできない人。
異性と触れ合う機会が極端に少ない、環境に問題のある人。
様々な理由で「禁欲中」の人。
恋人を欲していない、つまり恋愛に興味のない人。
ラブハラで問題になるのは、一番目が多いであろう。そういう人の前で、明らかに経験していないとできないような具体的な恋愛の話で盛り上がったり、恋愛経験のあることが当然という前提で話しかけたりすると、強い疎外感と被差別感を感じさせる場合があるということだ。


たとえばスキーができない人やテニスが苦手な人が、周囲がスキーやテニスの話で盛り上がっていた場合、多少の疎外感は感じたとしても、それほど不快になることはない。仮に「スキーもテニスもやらないの?」と問われても、「スキーってあんまり興味ないし、テニスは苦手なんだよねー」とでも言っておけば済む。スポーツができないくらいは、まあどうってことはない。
しかし恋愛となると、なぜかそうはいかなくなるようだ。
「恋愛ってあんまり興味ない」「恋愛って苦手なんだよね」と言ったとしても、異性からのアプローチがないわけではないが恋愛自体を避けている人と、したくてもできないから苦手になってしまった人とでは、天と地ほどの開きがある。
恋人が作りたくても作れないことに悩む人は、他人の恋愛話がすべて自分のコンプレックスを刺激する動因になり、「異性に恋愛感情を抱かれたことがない」「異性と性的関係を結んだことがない」ということが、「スキー滑れない、やったことない」などとは比較にならないくらい、重大な問題としてのしかかってしまうのである。


一方、最近は若くして「恋愛からはおりた」という人もいるようだ。恋愛などしなくても十分楽しく生きていけるわけであるから、わざわざそれに縛られることもない。しなければならないものでもない。「愛」は通常の恋愛関係だけではない。
だがそういう人もまた、往々にして奇異な眼で見られることになる。彼らに「どうして恋人作らないの?」「寂しくない?」と無邪気に問いかけること自体が、余計なお世話であり、価値観の押しつけになっていくわけである。
つまり、人は(年頃になったら)恋人を作る(作ろうとする)のが当たり前、大人になって恋愛経験の一つもない人は、"人として"ちょっとどうか?‥‥という漠然とした認識が、世の中にあるのだ。その共通認識が、ラブハラ成立のベースにある。
恋人が出来ない人はその認識に囚われて傷つき、恋人のいらない人にはその認識自体が抑圧的なものとなる。

新「勝ち犬・負け犬」

ラブハラが一方的な価値観の押しつけだと感じれば、「余計なお世話だ」と返せばいいのであるが、恋人が欲しくて出来ない人の場合、その価値観を内面化しているのでそうもいかない。
そしてまずいのは、恋愛できる能力があるか否かということが、その人に対する人格判断材料に発展してしまう場合があるということである。


恋愛できる能力とは何か。
ここで千差万別の答が出てきそうだが、恋愛も人間関係である以上、基本的にはおそらくコミュニケーション能力ということになろう。これはある程度訓練しないと、身につかない。しかしそれ以前に、恋愛でまず最初のきっかけとなりやすいのは、端的に言って外見である。恋愛は感覚的なものだから、それは仕方ないことだ。
外見とは顔かたちの美しさから、ファッションその他による底上げ能力まで、見た目に関するすべてが含まれる。その第一関門を突破しないと、能力査定すらしてもらえないという過酷な状況になっている。
恋愛へのチャレンジに数回失敗した場合、最初の関門で躓いているという挫折感と自信の欠如が、コミュニケーション能力を伸ばすチャンスや意欲すら奪っていくのである。


だから、ネットや雑誌でよく見られる非モテに対するアドバイスは、そのほとんどすべてが「まず外見をなんとかしろ」。特別おしゃれでなくてもいいから、不快感や違和感を与えないようにしろ。それで、恋愛市場に参加する最低資格を得ろ(‥‥その"成功例"は『電車男』に描かれた)。
外見、特に顔かたちが重要視されるというのは、もちろん大昔からあったことである。それに恵まれない女は嫁の貰い手がないと嘆かれ、どんなヒヒオヤジのところでも我慢して嫁がねばならなかった。恵まれない男はそれほどでもなく、金か権力を持てば女はなんとかなった。そこに、そもそも恋愛はなかった。
恋愛という相思相愛の関係は、比較的容姿に恵まれた男女、あるいは地位の高い男女のすることとされていた。そうした特権階級の恋愛が一種の贅沢品、嗜好品であった時代を経て、恋愛は古い性規範を乗り越えていく"精神"に高められていった。


今は「市場」が解放され、誰でも恋愛をするのは当たり前のこととされている。そして、恋愛の中身や濃度より前に、恋人がいるか否か、異性経験があるか否かが問題となってきている。
20代で恋人がいない(あるいは作ったことがない)と、いる人に対して「負けてる」と思うのである。他でどんなに勝っていても、経験がないという一点ですべてが帳消しになってしまうほど、恋愛、異性経験の有無は(潜在的に)重要視されている。
恋愛をめぐる「勝ち負け感」の意識は、最近どんどん低年齢化しているらしい。中学校(早くは小学校)でもクラスの中でカレシがいる女子といない女子に、見えない力関係、ヒエラルキーが生じているという話を聞いたことがある。それは、高校、大学と年齢が上がるに従ってじわじわと表面化する。


結婚をめぐる「勝ち犬」「負け犬」は、もはや過去のものになりつつある。なかなか結婚しない男女がここまで増えた現在、30以上未婚子なしの負け犬は一つの勢力だ。
結婚で「勝ち負け」が云々されている陰に隠れて、確実に広がっているのは恋愛の「勝ち負け」である。今や恋人がいる人は「勝ち犬」、いない(いたことのない)人は「負け犬」。この恋愛ファシズムの世界で、「負け犬」として堂々と発言できるのは、潔く恋愛からおりた人だけ。


しかしなぜ人は、恋愛しないといけないのか? 
恋人が作れないのは、恥ずかしいことなのか? 
だいたい恋愛って、そんなに素晴らしいものなのか? 
素晴らしい場合もあれば、そうでない場合もある、というだけのことではないか? 
そういう当たり前の問いは、恋愛が一種のイデオロギーと化した現在、恋愛経験のない者は口にしにくくなっている。