うらぶれた大人のための宿

夏休みの逃避先

夏休みと言っても、私は行くところがない。
実は今どんどん書き進めねばならない長い原稿があり、春からずっとそれにかかりきりである。書き上げた結果どうなるかは未定だが、とにかく寸暇を惜しんで書いて定期的に編集者に送らないとならないということだけは、はっきりしている。こんなにマジメに一つのものに長く取り組むのは、久しぶり。


夫は夏期講習も家での仕事も済んでしまい、「後期の仕事が始まる前に、どっか涼しいとこに行きたいなあ」と毎日ボヤいている。家にいても、何もやる気が起こらないのだ。私も行きたいが、原稿が‥‥。
って別に悩むことはないな、ノートパソコン持って行けばいいことではないか。
家にいたらついネットに繋いでしまったり、つい関係ない本やマンガを読んでしまったりして、意外と時間を無駄にしている。まだやってない草むしり(!)のことも気になる。今晩何食べようか考えたり、夫に晩ご飯を作らせるために忙しいフリをし続けたりするのも、どっかに行ってしまえばしなくていい。


しかし、いわゆる観光地とか人の多いところが苦手だ。夏だから海だ山だというふうに繰り出して行ったことが、ほとんどない。つまりレジャーというものに、私はあまり興味がない。温泉にもさほど執着心がない。時間とお金があれば海外に行きたいが、当分無理そうだ。もともと腰の重いたちなので、誰かに積極的に誘われるか用事でも作らないと、どこにも行かない。
しかし同じ環境でパソに向き合っているのも、飽きてきた。あまり人のいなくてそこそこ涼しいところは、近くにないものだろうか。


というわけで、岐阜県は東濃地方の恵那市明智町に二泊三日で行ってきた。
ここは大正村として、二十年ほど前に村おこしをしたところである。大正村と言っても、明治村のようなものを想像したら大違い。
低い山に囲まれた小さな町の中に、ぽつりぽつりと大正期の建物や店舗が残っているだけで、わりと充実した資料館はあるものの、全体にひっそりした感じがそこはかとなく漂っている。大正ロマンの香りというよりは、部分的に滝田ゆうのマンガ「寺島町奇譚」(昭和だけど)か、つげ義春の世界にも見える裏通り。あとはごく普通の田舎町だ。観光地臭くない。


たまたま去年の11月に初めて行ってふらふらと歩き回り、古びた旅館の半地下にある喫茶店兼バーに入った。
入り口が「いくら古いのがいいって、今時これはないだろう」と思うくらいの風情(レトロ、ロマンチックというのとはまた違う)で、内部もちょっとうまく表現できないがものすごーく古い。あれはむしろ、一周回ってカッコイイと形容した方がいいのかもしれない。
カウンターに座ると若々しいおばあさん(化粧しているというのでなくて、妙に若々しく元気)が出て来て、いきなり「さっきお客にもらったばっか」の五平餅を出してくれた。その笹乃屋旅館に泊まった。

www.pref.gifu.lg.jp


笹乃屋は、明治40年築(ということはもうかれこれ百年もの)。なんとなく作りからして元遊郭の感じもあり、何もかもが古くてシブい。ひなびた落ち着いた佇まいというのとは、似ているようで微妙に違うような。古色蒼然という感じに近い。
二階の二間続きの和室は十六帖だが、昔の部屋なのでやたら広く、廊下と合わせると二十帖くらいに感じる。もちろん、網戸やサッシやクーラーなどというものはない。泊まり客は私達だけ。絶好の環境である。

原稿書きと飲み代

夕食まで時間があったので、散歩に出た。
夏祭りも終わって既に季節外れなのか、観光客をほとんど見ない。大正村、いや明智町には、「大正村に認定されちゃったけど、まあ私らにはあんまり関係ないわな。そう儲かるわけでもないし」といった、どこか醒めた雰囲気が漂っている。
「この中途半端な、やる気のなさそーな感じがいいよね」
と言ったら、
「おまえにぴったりだ」
と返された。それはオマエだ。


食べきれないほどの夕食でお腹一杯になり、ちょっと下のバーに飲みに行こうかなと思っていたら、すばらしいタイミングで編集者の人から携帯に次回締め切り確認の電話がかかってきた。そうだ、原稿を書きに来たのだったよ。遊びに来たんじゃなくて。
けどまあ一杯くらいは許されるんじゃないだろうか‥‥ということで、夫とバーに行った。例のおばあさん(息子夫婦と一緒に泊まり客の世話をし、店の"ママ"もやっている)と地元のオジさんが一人いた。
夫は、どこでもしょっぱなからその土地の人とタメ口で話せるという才能を持っている。一緒にいる者は、最初は聞いていてヒヤヒヤする。しかしなぜか地元の人(特に年配の)に、気に入られてしまうのである。私にはとてもできない芸当だ。
この店も去年一回来ただけで、もういっぱしの常連客みたいな顔。おばあさんと客のオジさんと三人で、選挙とか農業問題とかキノコの美味しい食べ方とかの話で、盛り上がっている。なかなか興味深い会話だったが、私は小一時間くらいで引き上げた。


翌日、暇な夫はどこかに出かけて行った。
涼しい風の入ってくるお座敷で、時々簾の隙間から遠くの山を眺めながら、原稿書き。途中気晴らしに散歩に行き、喫茶店でお茶を飲んで、帰ってきてまた原稿書き。贅沢だ。こんな贅沢してていいのかしらんという気になってそわそわしてしまい、広い座敷で座る位置をあちこち変えたりして、当初の予定ほどはかどらなかった。貧乏性だ。
「おう、まるで"文豪"だなダハハ」
夕方うるさいのが帰ってきた。どこをほっつき歩いていたのか知らないが、満足そうだ。
夕食後、彼はまた下のバーに飲みに行った。どこに行っても、行動パターンは変えられないらしい。お酒を買って来て、部屋でしみじみと飲むという発想はないのである。しかし目の前でそういうことをされると、私もおそらく飲みたい誘惑に勝てなくなってしまう。今回の場合だと、ほとんど「嫌がらせか」と思えるだろう。だからどっかに行ってくれた方がいい。
また昨夜の話の合うオジさんが来ていたらしく、だいぶたって上機嫌で帰ってきた。


翌朝帰りがけに、おばあさんがナスとトマトとミョウガを袋にいっぱいくれた。
「親切なおばあさんだね」
「俺が二晩ともあそこで飲んだからだ」
そうかい。領収書を見たら、飲み代だけでどっちかがもう一泊できそうな金額である。
はえらくこの旅館が気に入り、来年2月にまた来るということである。去年11月もかなり寒かったが、2月はものすごく寒そうだ。


一泊9000円(二食付き・税別)、お風呂は家族風呂一個だけで温泉ではなく、すべての設備が古びているが、食事は普通の田舎料理で品数むちゃくちゃ多し。半地下に時間の止まった喫茶店兼バーあり。しっかり者のおばあさんはまだまだ元気で長生きしそう。周辺に特別面白いものはないが、すごくシブい雰囲気を味わいたいうらぶれた大人にはお勧めです。


<おまけ>
そう言えば、この近辺で売られている「女城主」という日本酒は、(名前も心惹かれるが)辛口でおいしい。去年行った時新酒を買ってヒットだったので、今年も買った。普通の一升瓶辛口(2000円)でも十分だが、720mlの大吟醸「幻の城」(2900円)がお勧め。
名前の由来は、隣の岩村町にあった岩村城の女城主おつやの方に因むもの。なかなか凄まじい人生を送った女性のようだ。もちろん岩村城は、今は城跡しかない。