恋愛なんか。

人それぞれなんですが

恋愛の話になると、そこに性欲があるかどうかで意見が分かれることがたまにある。
私は当事者が自覚するにせよ無自覚にせよ、性欲の介在しない恋愛感情はないという立場。もし仮に「恋人とはセックスなんてしたくない」「そんな"野蛮"な行為は嫌だ」と思っていたとしても、性欲はおそらく倒錯した形で無意識の中に潜在しているのではないか(まあ多かれ少なかれ性的に倒錯しているのが人間だが)。
現実のセックスが嫌い=性欲がない、とはならないと私は思っている。


しかし、性欲のない恋愛感情もあるという意見に時たまぶつかる。最近もここここのブログのコメント欄で、そういうやりとりをした(コメント欄、かなり長いです)。
Aセクシャル(アセクシャル=男性、女性どちらも性愛の対象にしない人、性欲そのもののない人、そうしたセクシャリティ)の人がいるとか。好きになってもセックスしたいとは思わないことはあるとか。
そういう例を出されてみると、なるほどとは思う。で、まあいろいろありますよね‥‥ということで、話は終わる。
人のセクシャリティはさまざまだ、ゲイからバイからAセクシャルから萌えまで多様性がある。まったくその通り。
異性愛の恋愛だけが恋愛ではない。まったくもってその通り。


こういう「いろいろあるんですよ」という指摘は、単に「事実」を指摘している以上に、世の中の異性愛至上主義的傾向への懸念として、表明されることが多い。そしてそう表明されれば、「そりゃもっともですね」と引き下がるしかない。
だが引き下がったところで考えてみて、いつも私は「‥‥で?」という気分になる。多様性がある。人それぞれである。そんなの当たり前のことではないか? 
私が考えたいのは、その上でなおかつ厳然としてある、男女の性の問題なのだ。


「ほら、もうそこで「男女」って異性愛だけに限定しちゃってるじゃないか」というツッコミは入ろう。しかしレズビアンでもバイでもAセクシャルでもない私が、それらを含めた恋愛について(想像はできても)実感を持って語ることはできない。それは基本的に当事者が語るべきことだから。
当事者でない者が取ることのできるもっともフェアで誠実な態度は、世間では多数派に属さないそうしたセクシャリティの人の声を排除すべきでない、社会的に差別してはならないという「人権の立場」だけである。もちろんそこに立つのに私はまったく躊躇しない。


まあ二次元萌えを「純愛」とする本田透のような人もいるし、性愛をモテから萌えまで含めて語る斉藤環のような人もいる。橋本治は昔どこかで、友情はセックスをしない恋愛だという名言を書いていた「愛」については誰でも一家言あるものだ。
一方、「恋愛」と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、第一には男女の関係であろう。そして、その男女の関係には、性欲が抜き難くつきまとうということも、やはり多くの人の実感であろう。
もし、そういうイメージや実感を持てるのが二人に一人程度の割合でしかなかったら、私も根本的に認識と態度を改める。


男女の恋愛についての言説、イメージはさまざまなメディアを通して世の中に溢れている。そして、一面的な美化作用を施されていることは多い。
純愛物語など、その最たるものである。そこで私はしばしば「?」と思わされる。受け手をバカにしとんのか、こんなもんに騙されてていいのかと、怒りにかられることも少なくない。
異性愛者が数の上でマジョリティである以上、その恋愛について流布している言説やイメージに影響されたり、騙されたりする人も相対的に多いことになる。だが一方で、違和感を感じている人も必ずいる。
そういうことは同性愛を描く世界でもあるのかもしれないが、私は異性愛が覇権を握る世界にどっぷり浸かってきた異性愛者だ。そこで快楽も苦痛も味わったから、男女を巡ることについて書きたいのだ。その際、いちいち「性欲のある異性愛者の話だが」と断らないだけで。

天使の顔して悪魔のように

異性愛や男女のことについて考え書くからと言って、私はそれを全面的に賞揚しているのではない。恋愛をイメージよさげな「愛」と称し、「愛の名の下に」すべての行為や要求を正当化する言説には、賛成できない。
「愛があればセックスするのが当然」という欺瞞的な言い方にも反対だ。それを言うなら「性欲があるからセックスしたい」だろう。それでは身も蓋もないと言うのであれば、「誰でもいいからセックスしたいのではない。あなただからしたい」と言いなさい。


そんな無粋なことをわざわざ口に出す者はいないだろうが、要はそういうことではないか。
もともと恋愛なんて面倒だったのに「あなた」だから欲望が喚起され、人と接近するのは苦手だったのに「あなた」だから触れたいと思い、「あなた」だからキスしたいと思ったのだ。「あなた」だから、あの変てこりんな体勢で汗と体液にまみれる必ずしも気持ちいいだけとは限らないセックスという粘膜の接触運動も是非してみたいと思ったのだ。違いますか?
などと書くと、まるで「愛」が最初からそこにあったみたいだが、愛情が先か性欲が先かは往々にして鶏と卵みたいものなので、そこを追求してもあまり意味はない。
愛情と性欲が別物であることは拙書に書いたので詳しくは触れないが、結局その二つが分ち難く結びつき、特定の「あなた」に対して生まれる感情が、恋愛感情と言われてきたものだろう。別に大した意見ではないのだ。


性欲の強さに個人的差異がある(ほとんどない人もいる)というのは、「人それぞれ」の話であって、それに異論を唱えるつもりはない。
異性愛者だって、のべつまくなしに恋人とセックスしたいと思うわけでもなかろうし、しなくても満足の時はあろうし。自分の体が嫌いだったり性についてのトラウマがあったりすると、セックスを積極的に忌避する傾向も出るかもしれない。
「冬ソナ」ファンのおばさんは、「しなくても満足」派の人達である。むしろ「しない方がステキ」派。既に「おばさん」であるという自覚と、セックスへの諦念と達観がして、彼女達をその手の派の人にする。
だがおばさん達に性欲がないわけでは決してないと思う。なかったらヨン様に夢中になることもない。そして性欲がなかったら、ボーイズラブに萌えることもないし、二次元に没頭することもないはずだ。
もっと言えば、性欲、性愛という能動的で凶暴でアナーキーな欲望なしに、すべての創造行為はない。
私はそのくらいのレンジで性欲というものを考える。


性欲、性欲と書いていると、「そんなあけすけな話、もう嫌だ」と言う人もいるかもしれない。ものすごく好きになって、ものすごく大切にしたいと思っているあの人へのこの感情を、「性欲」の一言で片付けるなと。
私にもそういうジレンマはあった。好きな人のことを思ってオナニーするなんて、自分が"堕落"しているような気がしたことがあった。ついいたしてしまった後では、申し訳なさと切なさと情けなさに打ちのめされ、さめざめと枕を涙で濡らしたものだった。
笑って下さって結構よ。恋心はしばしばそういう屈折した形をとる。
そしてついに念願かなってつきあい始め、初セックスに至った時、こんなはずじゃなかったと思った自分。
そう思ってしまった自分への自己嫌悪。
しかしつきつめれば、どっちが悪いとかいう問題ではない。セックスはおそらく「男女平等」の、男女の「相互理解」の、究極の不可能を示しているのだ。
そこで私は、「この快楽を手放したくない」という願望と「この苦痛から逃れたい」という願望に引き裂かれる。「愛」ゆえにすべてが丸く収まるなんて、真っ赤な嘘だ。


そのことを知ってから、私にとって恋愛は、単に素晴らしいものでも、誰もがして当たり前のものでもなくなった。しないでいる方がどれだけ楽ちんで心の平安が保たれることか。恋なんざァ愚か者のすることよ。だいたいそんなことに費やすような時間とエネルギーを、それ以外の人との関係や仕事に向けた方がはるかに有益だ。
そう思っているところに、天使の顔して悪魔のように到来し、こちらのコントロール能力を奪い去るのが、あの厄介な恋愛感情である。
それは合理性も準備も配慮も踏み越えてやってくるのである。
そこで自分に言える言葉は、「まだ人を好きになることができた」でも「逢えてよかった」でも「神さまありがとう」でもない。
「御愁傷様」である。