恋愛しないことの喜び

「恋愛することの喜び」というものがある。もうあらゆる媒体で嫌というほど描かれてきた。
「恋愛することの苦しみ」というものもある。これも小説や映画では結構描かれてきた。
この二つは既に定型化され、あらゆるバリエーションを生み出している。
さて、「恋愛しない/できないことの苦しみ」というものがある。
まず、したいのにできない苦しみ。これは「恋愛することの喜び」を前提とした、片思いの苦しみとして描かれてきた。
次に、別に恋愛したくないのに、それが世間から奇異な目で見られるという苦しみ。これは比較的新しいものである(恋愛を異性愛の恋愛に限定した場合に限って、同性愛者の苦しみとして描かれることはある)。
いずれも世間の視線が、その苦しみを大きなものにする。
最後に残ったのは、「恋愛しないことの喜び」である。これは普通、恋愛して喜びと苦しみを味わった結果、その恋愛を終わらせ、恋愛にまつわる嫉妬や独占欲や拘束感や煩わしさや内なるジェンダー規範から「解放された喜び」として描かれる。それは「恋愛を(一旦)やめた喜び」である。


しかし「恋愛しないことの喜び」は、正面切って描かれたことはないのではないだろうか。


恋愛しないとは、恋愛、性愛感情とハナから無縁であるということであり、それはアセクシャルの人だけのものである。
ヘテロもゲイもレズビアンバイセクシャルも、「恋愛することの喜び」か「恋愛することの苦しみ」か「恋愛しない/できないことの苦しみ」か「恋愛を(一旦)やめた喜び」しか知らないとされている。
せいぜい、恋愛で振り回されたり手酷く傷ついた人が、「思えば恋なんか知らなかった頃はよかったなあ」と回想するくらい。結局はそれも「恋愛する」ことが前提となっている。
「恋愛しないことの喜び」は存在しないことになっているのだろうか? 「恋愛しない/できない人」が一定数いるのに? だったら、誰かが描くべきではないだろうか。


‥‥とここまで考えて当たり前のことに思い当たった。それは友愛をテーマにしたものだと。


普通、男女の恋愛は当たり前でも、男女の友愛は難しいと思われることが多い。相手にもよるだろうが、たしかになかなか難しい面はあると思う。
しかし友愛の方がずっと楽しいものだという小説や漫画や映画がたくさん作られたら、少しは変わってくるかもしれない(映画『ベスト・フレンズ・ウェディング』は、恋愛ものに入るが、そのあたりに触れている)。


欲望は作り出されるものである。
男女の恋愛がかつて恋愛文化の普及によって広まったものなら、男女の友愛も友愛文化の普及によって広まるはずだ、という仮説をとりあえず立てておこう。



●参照記事:恋愛からの自由ー「恋愛普遍主義批判」ー(umeten氏)
蛇足だが、「恋愛してない時の方が、自由で楽しくて自分らしくいられるような気がする」と私は感じることがよくあった。それはあなたが恋愛で自分を偽っている面があったからでしょう? まあそれもあったかもしれないけど、実はそう思っている恋愛体験者は結構いるのではないかと思う。


●ブクマコメントに反応(日付、タグ省略、*の後が反応)
kmizusawa  友愛よりも、むしろ「一人でプライベートな時間を過ごすことを日常とする喜び」を宣伝した方がより多くにアピールするのではないかと。友達いないヤツはダメだっつー抑圧もあるんで *たしかに。じゃあ仮説は次案ということで(「恋愛関係の構築より友愛関係を作る方を優先した方が結果的にはいいよ」という個人的な思いが出ていたんだと思う。たぶん)。
mind 友愛の方がずっと楽しいという小説…がたくさん作られたら…ーー燃え燃え系。野球とか、同人創作とか、個々人それぞれ。するとある日そこにサークルクラッシャーが侵入し振出しに戻る…という因果ぐるぐる; *個人的には燃え燃えはちょっと。「一人でプライベートな時間を過ごすことを日常とする喜び」の孤高の人に、ずっと友達片思いする話なんかがいい。
umeten 友愛よりも、「偏屈変人の平穏無事な生活」みたいなのがいいんじゃないでしょうか? *あ、それも素敵。というかumetenさんはそれを目指していらっしゃるのですね。
TakahashiMasaki "恋愛しないとは、恋愛、性愛感情とハナから無縁であるということであり、それはアセクシャルの人だけのものである"たぶん自分がそうかも。*無縁の喜びはあるのでしょうか。
suVene 「ない」という概念は、「あるものがない」として認識されることが多いから必然といえば必然。 *「あってしかるべきものがない」しかも「そのものはすごくいいものらしい」と認識されると、「ない」ことはネガティブなことになってしまう。