「恋人」を作ろう、または無血革命への道

昨日の記事のブクマで、kmizusawaさんに指摘を受けたので、少し考えてみた。
「恋愛しないことの喜び」→「一人でいることの喜び」は、恋愛から降りている非モテの人の(求める)感覚なのだろう。私はそこに思い至らず、恋愛という男女関係に替わるものは、友愛関係だとした。しかしそれを流行らせてしまうと、友人のできない人を抑圧することになるわけだった。
難しい。何事もあちらを立てればこちらが立たず。


私はあまり積極的に友人を作れるタイプではなかったが、「枯れ木も山の賑わい」的友人関係は鬱陶しかった。友人は仲のいい人が一人か二人いればいい。
子どもの頃は、ただなんとなく安心できる相手を求めた。中学、高校では、趣味の合う相手が欲しかった。二十代から三十代では、笑いと怒りのツボが同じ人と引き合った。この年になると、友人はたまに耳の痛いことを率直に言ってくれる人である。
信頼できる友人を、同性、異性関わらず、一人は持っていた方がいいと思う。たった一人の孤独を楽しめるのは、やはり若くて元気なうちだと思うからだ。若ければ孤独も貧乏もまだ耐えられる。
しかし孤独で貧乏な老後は惨めである。高齢化が進む社会で、決して少なくないはずのそういう老人達を制度が守っていかねばならないが、今のところあまり期待できない。結婚も恋愛もしない人が、最後に互いに支えになれるのは友人である。
だから「恋人を作れ」とか「結婚しろ」という抑圧はいらないが、「友人がいた方がいい」という抑圧は、まったく無しにならない方がいいように思う。


ところで、ずっと前も引用したことがあったが、ゲイの作家橋本治の「友情はセックスのない恋愛である」という名言がある。
友人について考える時、私はこの言葉を時々味わってみる。これは友情と恋愛とはまったく別個の感情ではなく、地続きだという意味の言葉である。つまり、友情は希釈された恋愛感情であり、そこにごくごく僅かな性欲もあるということだ。


同性、異性の友人の顔を思い浮かべてみる。誰とも、性行為に及ぶという想像はできない。しかし私の友愛感情は、薄い恋愛感情だという気はたしかにする。
彼らと出会えたのは僥倖でずっとつき合いたいと思っているし、会えばいつも嬉しいし、ご飯やお酒がおいしい。セックスは互いに忌避すると思うが、抱き合うのは嫌じゃない(ほとんどしないけど)。軽い嫉妬もある。かなりの部分で恋愛感情というものと重なる。同性、異性関わらず。
橋本治の言葉をリテラルに捉えると、仲のいい友人のいる人は、みな(セックスなしの)恋愛をしている人である。性的方面では大変薄まった恋愛感情なので、誰もそれが恋愛だということに気づかない。
そんなの気持ち悪い? でもその人にしばらく会わないと淋しいでしょう? 声を聞きたいし顔を見たいなと思うでしょう? 会って喋っていると時間の経つのが早いし、別れる時は名残惜しい。何かあったら助けになりたいし、喜びは分かち合いたい。仲違いしたらきっとすごく落ち込む。
ほとんど恋愛じゃないですか。


古代ギリシャで男同士の愛が最高位に置かれたのは、長い戦争でホモソーシャルな関係が生まれたからだった。そこで友情と性愛は一致していた。日本でも男色は古くから、僧侶の間で一般化していた。男性の方が同性愛的志向が強いとされているのは、興味深い(だいたい私は、夫と友人のT氏の関係にその匂いを嗅ぎ取っている。あれはかなり「セックスのない恋愛」っぽい)。
もし、友情が恋愛の一種であるという認識が社会に定着したら、暴力革命でもって「誰にも恋愛させない」ことを掲げる「非モテ革命」はどうなるのだろう。ヘテロ恋愛だけでなくあらゆるフレンドリーな関係を破壊せねばならなくなるので、ますます困難だ。
「恋愛しないことの喜び」は、他人と親しくしない喜びでしかなくなるだろう。そんな喜びを求める人は根っからの人間嫌いだから、放っておいても構わない(←昨日と逆さまの結論)。


友情はセックスのない恋愛である。
友人はセックスしない「恋人」である。
「恋人」は同性でも異性でもいいし、何人いてもいい。
別の人と共有もできる。
「恋人」の「恋人」も「恋人」になれるかもしれない。
年をとるまでに、一人は「恋人」を作って、気持ちのいい「恋愛関係」を育てたいものだ。


もちろんこれは概念の遊びである。
「セックスのない恋愛だけの人」(いわゆる友人しかいない人)と「セックスありの恋愛もできる人」(いわゆる恋人もいる人)との差は厳然としてあるし、「恋愛したくてもできない人」(どっちもいない人)もまだ残る。言葉のフレームをちょっと変えただけで、実質は何も変わらない。こういうのが"反革命"と言われるんだろう。


でも「恋愛」という言葉のもつ圧迫感は、ずっと減少するはずだ。
「恋人」がいることも大したことじゃなくなる。「恋人」とセックスレスでも別に普通。"フラレタリアート"も今や複数「恋愛」をこなす。「彼女はただの友達だって」という言い訳や、「友達のままでいたいの」という物言いは通用しなくなる。
一方、セクシャルマイノリティカップルは「恋人同士です」と公言できる。それ以上訊くのは野暮とされる。『釣りバカ日誌』も『テニスの王子様』も『下妻物語』も『NANA』も同じ「恋愛」もの。西部劇なんかほとんど「恋愛」映画。
そして、かつて"恋愛ブルジョワジー"が独占していた「恋愛」の特別感はなくなり、かつての恋愛感情は、性的承認欲という身も蓋もない言葉に置き換えられる。かつての恋愛小説はすべて、性的承認小説として読み直される。「恋人」と性関係があるというだけで無い人を見下す人や、セックスできる「恋人」ばかり作りたがる人は、性的承認至上主義者と呼ばれて顰蹙を買う。


こうして、いつのまにか無血革命が成就する(え?)。