「『性愛』格差論 モテと萌えの間で」を読んで

欲求不満な対談

ネット上でもいくつかの感想や書評が出ている『「性愛」格差論 萌えとモテの間で』(中公新書ラクレ)。ちょっと恥ずかしいほど"キャッチー"な釣りタイトル(人のことは言えないが)と、斎藤環酒井順子という売れっ子同士なのにありそうでなかった組み合わせに、私も思わず書店で本を手にしてしまった一人である。
対談は、全般に斎藤環がリードしていて、酒井順子のコメントはおとなしめ。なんとなく、ニュース番組の中年男性解説者と若い女性キャスターのかけあいみたいな、ゼミの先生と院生のやりとりみたいな、微妙な上下感。
酒井順子の文章は戦略的「受け」芸だが、対談ではわりとベタに「受け」身である。相手が精神科の「先生」だからか。内容よりそっちが気になってしまったが、それはさておき。


ここでは性愛の嗜好の違いによって、負け犬、おたく、ヤンキー、腐女子と4つのカテゴリ分けがなされている。
リアル世界でモテを目指すのがヤンキー(暴走族のことではない。女で言えばギャル系、経済格差においては真ん中より下とされる最大のボリュームゾーン)。
虚構世界に萌え、現実の恋愛からは一歩引いているのがおたくと腐女子(ヤンキー文化圏と最も遠いメンタリティ。おたくは童貞カミングアウトが多いが、腐女子の性は謎に包まれている)。
異性とよりも同性とのつきあいが楽だったり、恋愛はしても結婚と結びつかないのが独身の負け犬(性体験は二極化)。


大雑把に言うと、恋愛、セックスに最も意欲的な順は、ヤンキー>負け犬>おたくと腐女子、ということになる。経済格差では負け犬>おたくと腐女子>ヤンキー(実際の負け犬は下流層にもかなりいるはずだが、「負け犬の遠吠え」ではそういう像は描かれてなかった)。
ヤンキーはセックスやりまくっているうちにできちゃった婚などして負け犬率低そうだが、おたくと腐女子は高そう。しかし彼らは、たとえ現実の異性の相手がいなくても、豊富なおたく文化とやおい文化の中で性愛を昇華させていると。


4カテゴリに特化した各論は、それぞれの「部族」を一般向けに紹介し、「こういう人たちですよね」「こういう特徴がありますよね」と話しているわりとユルいノリである。それはだいたい知ってるけどだから何?という感じも拭えない。酒井順子にもっと突っ込めと言ってもキャラ上難しいかもしれないが、話の掘り下げに物足りなさが残る。
私がもっとも興味のあるのは、腐女子セクシャリティである。酒井順子もそこでは質問を連発していた。
おたくがキャラ萌えしてヌケるのに対し、腐女子は「攻め」と「受け」の関係(位相)萌えでマスターベーションできる(聞き取りから)というのが、斎藤環の意見である。さすがに、杉浦由美子が『オタク女子研究』で「腐女子だって彼氏がいたり結婚している人はいるのです、負け犬の人みたいにガッツいてないだけです」(意訳)とか中途半端なルサンチマン漂う発言でボカしていた性欲問題に、ラカン精神分析の人らしく踏み込んでいる。


「性愛」の欲求は誰にでもある。恋愛に消極的で、結婚しない男女が増えたと言っても、性欲の絶対量が減ったわけではないと斎藤環は言う。だから最終的にその欲望は、何らかの形で昇華される必要がある。
そこでヤンキーはセックスに向かうが、おたくの人は総じてオナニスト。モテないからオナニーしかないという見方もあろうが、虚構世界の方が脳内でファンタジーを補完して、純粋に楽しめるという利点はあると思う。


私はヤンキーのメンタリティにどこかで共鳴し、腐女子度が低く負け犬になりそこねた者だが、基本的にはやはりオナニストである。
セックスは人間関係の一つだから、楽しい反面わずらわしいことも多い。エネルギーは使うし時間もとられる。それこそ純愛にでも陥って、全エネルギーをそこに投入するといった異例の事態でもなければ、もう別にセックスしたいとも思わない。
‥‥いやこれはちょっと正直ではなかった。したい欲求はあるが面倒臭いのが本音。
全然面倒臭くなかった若い頃は、相手を見つけるのに苦労した。だからオナニーという「文化」があって、本当によかったと思う。オナニーはセックスの時以上に豊かな妄想力を必要とするが、その分、下手なセックスするより心身ともに満足できることがある。
男とのセックスだけが性欲を満たす唯一の方法だったら、私は無理してヤンキーにならねばならなかっただろう(それはそれで楽しかったかもしれないが)。

モテでも萌えでもなく

斎藤環の前文を読むと、社会システムから生まれた格差とは異なるところに、「平等に不平等な」性愛の嗜好の多様性、つまり「さまざまな愛のかたち」があり、それは「私たちにシステムの外側を思い出させてくれるかもしれない」とのことである。それが格差を超えた「幸福」であろうと。
その一例として映画『ブロークバック・マウンテン』の同性愛が挙げられているが、本書の中身に即して考えると、ここで「システムの外側を思い出させてくれるもの」として暗に言われているのはおそらく萌えの方であって、モテではない。斎藤環はおたく文化圏に近い位置にいる人だから。モテなくたって萌えという立派な性愛があるじゃないか!ということだ。
正反対の志向にも思えるモテと萌え。しかし純愛論を書いた私の視点から見ると、そんなに違うとは思えない。


まずモテから考えてみる。
モテを目指すヤンキーは、恋愛至上主義者ということになる。だが一人の人にすべてを賭けてしまう"任侠純愛"を選ぶというよりは、とにかく複数のイケメンやギャルにちやほやされ、複数から恋愛感情を抱かれることが「モテ」るということだろう。一人からしかモテなかったらそれは「モテている」とは言わない。そして一人にアタックして恋仲になった人も「モテる人」とは言わない。
性的撒き餌をして異性をおびき寄せる態勢を常にとっており、それに成功していることが「モテる」こと。
つまりモテとは、自分から積極的に一人の対象に近づいて地雷を踏んだりはしない「待ちの態勢」が基本である。受動態勢ながら、優位に立っているのである。そこで充足できる限り傷つかないだろうから、ヤンキーはモテを目指す。異性と短いスパンで次々つきあったり複数恋愛したりする。
もし思いがけず純愛に陥り相手が手に入らないことを知ったら、経済格差でも負け、異性関係でも負けとなって救いようがない。


では、萌えるおたくや腐女子はどうか。おたく文化や腐女子文化の中には能動的なクリエイションがあるという意味では、「待ち」のモテとはスタンスが異なる。
しかしやはり、おたくの萌え対象も腐女子の萌え対象も、彼らを傷つけることはないだろう。モテている人が自分に寄ってくる異性より優位に立っているのと同じ意味で。彼らと対象との間には絶対的で安全な距離があり、萌えるための細かなアイテムやイメージは無限に産出され、「攻め」「受け」の脳内操作は自由自在だ。
仮に萌えを純愛と看做せば(私は看做してないが)、純愛の根幹をなす性愛はマスターベーション・ファンタジーの中に完結する。
そこでは、異性とややこしい関係になることもなく、すれ違って理不尽な思いをすることもない。告白して振られるかもしれないという恐怖も、実際振られる惨めさもない。萌えもモテも代わりはいくらでもあり、続けることもやめることも自分だけで決められる「自由」な性愛だ。そういう意味で、似ているのである。


斎藤環は、性愛を積極的に肯定する。「性愛ゆえに人は頑張り、性愛ゆえにバカになる」。
私も基本的にはそう思う。ヤンキーはモテのために、おたくや腐女子は萌えのために、金と時間とエネルギーを投入する。投入しただけのものが返ってくる(見込みがある)のがモテや萌えであろう。
それと、現実の恋愛とはやはり違うように思う。
現実の恋愛は、続けることもやめることも自分だけで決められる「自由」な性愛ではない。投資が回収できるとも限らない。「性愛はコントロールできないもの」であるならば、その中でもっともコントロールが効かないのが、恋愛だ。
だから萌えでもモテでもない一対一の真剣恋愛(私の本ではその最たるものを「純愛」だとしたが)は、往々にして残酷なラストを迎えるのである。その残酷さは、マスターベーション・ファンタジーにはない。


私はモテにも萌えにも行けなかった。私の性愛は、真剣恋愛するんでなければオナニー。その中間も外もなかった。
他人の多様性は容認するが、自分の中には多様性がない。
モテる方法は知っているが、自分がそれを使いこなせるとは思えなかった。
よしながふみの漫画を読み、女性に淡い性愛感情を抱くことはあるが、そこに自分のユートピアを見つけることはできそうにない。
私の「最大の快楽とともに、最大の苦痛の源」(斎藤環、p.17)は、常に現実の異性との間にある。
それを「幸福」と呼んでいいのかどうか、いまだにわからない。