日本の純愛史 7 乙女の恋と富島青春小説 -50〜60年代

純愛ものを好んだのは主に女性。これは当時隆盛した少女雑誌に、純愛的恋愛小説が掲載されたことにも窺える。
少年向けの雑誌に、純愛ものが載ることはあり得ない。そこにあるのは探偵小説や冒険小説(あるいはその種のマンガ)だ。
つまり、女の子は恋をして結婚を夢見なさい。男の子は将来に備えて、頭(探偵)と体(冒険)を使わないとね、ということである。


こういう十代の少女向けの純愛ものは、いわゆる"胸キュン"と呼ばれるようなものだが、少女雑誌に最初から男子も登場していたわけではない。女の子だけの世界があった。
過去にさかのぼってみると、戦前の少女雑誌に君臨していたのは、少女小説のゴッドマザーでレズビアン吉屋信子(代表作『花物語』)である。
「男女七歳にして席を同ぜず」の当時、先生やお姉様への憧憬や思慕を流麗な文体で描く少女小説は、女子だけのふんわりした乙女天国。男子禁制の百合テイストな「愛」が、純愛(小説)だった。川端康成も『乙女の港』という女学生の三角関係を描いた小説を、少女雑誌に発表している。


戦後の昭和二十年代から三十年代の間に少女雑誌は二十誌以上に及び、乙女文化花盛りとなる。
この中で一世を風靡していたカリスマ挿絵画家中原淳一責任編集の『ジュニアそれいゆ』は、きれいなものに飢えていた戦後の日本の女の子を虜にした伝説の雑誌だった(この数年の乙女文化の復活で、また続々と復刻された)。
中身はまず、青春純愛映画に出ている若手人気俳優や人気歌手のグラビアページがあり、ファッションページ(写真とイラスト)があり、簡単な料理コーナーや手芸コーナーや読物やコラム(日常生活のエチケットとか、男女交際の心得とか)などが続く。戦後まもなくの創刊とは思えないモダンでオシャレな誌面だ。
こうした中に、男女共学と純潔思想を背景として、純愛小説らしきものも登場している。想いを寄せる男子とすれちがっただけでドキドキするような、おセンチで甘いやつ。
たとえば、「君の犬の名前、なんて言うの?」「ベスよ」「僕んちも犬飼っているんだ。今度一緒に散歩しないかい」「ええ、よくってよ」(ドキドキ)‥‥みたいなノリ。で、どちらかの家の引っ越しかなんかで淡い恋は終わりを告げる。性的なニュアンスは、清く正しい乙女の雑誌には御法度である。
当時の十代の女の子の恋への憧れとナルシズムを満たしてくれていた、「純愛=乙女心のトキメキ」。
「自分の欲望」と「社会の欲望」が折り合わないところまでつっぱしる、などという無謀なことは、お嬢さんには無理である。
「十代のひとの美しい心と暮らしを育てる」がキャッチフレーズの少女雑誌は、当時台頭してきた中流層の専業主婦予備軍養成雑誌だったので、純愛もトキメキ程度に止めておきなさい、ということだ。


昭和四十年(一九六五)頃からは、「乙女心のトキメキ」より一歩進んだ恋愛を扱ったジュニア小説と呼ばれるものが主流になり、コバルトブックス(後のコバルト文庫)などで、富島健夫(『制服の胸のここには』)や三木澄子(『純愛』)が活躍した。
ここでジュニア小説についての解説を、『ポスト「少女小説」の現在 女の子は男の子に何を求めているか』(横川寿美子/21世紀文学の冒険7『男女という制度』斎藤美奈子編)から引用しよう。

一般に「ジュニア小説」といえばスキャンダラスなイメージが強いが、たとえば「主に青春・性のめざめなどをテーマの中心に捉え」「現実の中学生・高校生を主人公に、学校を主な舞台として恋愛・友情をときにはシリアスにときにはユーモラスに描いていた」(『日本児童文学大事典』大日本図書)という説明からも窺えるように、実際の作品の多くは健康的で前向きな、場合によっては求道的とさえ言えるものであった。
登場するティーンエイジャーはある種理想化された中・高生で、たとえいっとき性愛にのめり込んだとしても、最終的には大人の描く良識的な将来図に向かって軌道を修正して行くのが常であった。


「性愛」と言ってもセックス場面があるわけではなく、せいぜいキス止まりだ。戦後の純潔教育の影響は、ジュニア小説にも当然及んでいた。
横川氏によれば、今の女の子向け読み物の書き手と違って、当時の作家は中高年の「大人」ばかりだったそうだから、コンサバな内容でも仕方ない。中・高生を大人と直接戦わせたり、目に針突き刺したり、雪山に追いやって死なすことはできないだろうし。
ちょっと冒険はしてみるが最後は大人しく規範に従う。ジュニア向け純愛ものの限界である。
いずれにしても純愛ものは、若い女の子向け。世間からはそう認識されていたということである。
その証拠に、純文学方面では、昭和三十五年(一九五八)に発表され翌年芥川賞を受賞した三浦哲郎の『忍ぶ川』くらいしか見当たらない。遊郭に生まれ料亭で働く娘志乃と大学生哲郎が、苦労しながら愛を貫く姿を描いたこの自伝的な小説も、性を描く現代的な小説が主流を占めていた当時、珍しくレトロな純愛小説だったので注目を集めたのだった。
二人は最後に結ばれるので、先の章で述べたように七十二年に映画化された時は、吉永小百合に替わって出た栗原小巻が半ヌードを見せている。まあ七十年代だったからできたことで、小説と同時に映画化されていたらそれは不可能だったかもしれない。





純愛ものにおいて、性をまともに描くことはずっと回避されてきた。
しかしいくら「純愛=ウブな若者の初恋」と言っても、若者には健全な性欲があるのだし、セックスくらい(しなくても)知っている。知ってはいるが踏み出せない。
その心境を男子の目から描いているのが、富島健夫の『雪の記憶』(昭和三十三年・一九五八)である。

雪の記憶 (徳間文庫)

雪の記憶 (徳間文庫)


時代は、終戦直後。十六才の海彦は、通学の電車の中で同い年の女学生雪子と出会って一目惚れし、やがて相思相愛の仲となる。前から雪子に目をつけていた不良の和田に、彼女を「おれにゆずれ」と脅され、度々痛い目に合わされるがへこたれない。雪子も、和田と自分の間を取り持とうとした女友達と喧嘩し絶交。
やがて噂になった二人は、双方の担任から交際を慎むよう忠告されるが、それには従わず密かに逢い続け、どんどん気持ちが高まっていく。気持ちだけでなく体の方もだんだん接近していく。
この小説が面白いのは、その体の接近具合と感情が、実に丹念に描かれているところである。


つきあい始めて数ヶ月の間は、指一本触れない「清く正しく美しく」のおつきあいである。
「毎晩九時きっかりに五分間、あたしは北極星を見ているわ。あなたも見つめてて!」
とかなり"乙女ちっく"な雪子。苦笑する海彦も、一人で北極星を見つめていると「たしかに妙な胸のときめきを覚えるのである」。『泥だらけの純情』の真美、次郎と同じである。
しばらく経って川の堤で並んで座っている時に、雪子の手に海彦はそっと触る。手を握りしめ合うと、雪子の親指がちょっと痙攣するのが妙にリアルだ。いわゆる世間で言うところの純愛ムード満点な中に、こうしたナマナマしい描写がちょくちょくあり、"青い性"の匂いが漂っているのである。
雪子の家はわりと裕福で、海彦の方は比較にならないくらい貧乏な家という「階級差」も、海彦の緊張を高めている。


で、手の次は肩。夜道を歩いている時、思い切って後ろから雪子の肩に手を置くと、雪子がこちらを向いたので、もう一方の手は必然的に背中の方に。
はい、やっと抱き合うことができました。そしてとうとう初キスもしました。肩からキスまで二十五行かかっている。
しかしキスは結構大胆で、「海彦は雪子の唇を吸った。雪子ははげしくあえいだ」。しかも海彦、「雪子の乳房の弾力」を感じてしまっていたりする。
さらに数日後のキスでは、「雪子は海彦の唇を吸うようになっていた」。そういうことが男子にとっては大変嬉しいものなんだということで、わざわざ書いてあるのである。
そして雪子は、海彦の家で「非常なあらあらしさで」抱きしめられた時、今度は「身をくねらせてあえいだ」りしちゃうのだ。
「吸う」とか「あえいだ」とか、なんかそこだけ抜き出すとポルノみたいだが、それもそのはずで、筆者の富島健夫はジュニア小説でブレイクした後、官能小説作家として人気を集める。その片鱗が初期作品からすでに現れているわけだった。


さて、ここまでくるのに一年近くかかったのも二人の生真面目さゆえなのだが、ここから先は大人の世界なのでなかなか踏み出せない。
しかし終わりの方で事態は急展開。「ながい間、二人は動かなかった。海彦の右肘は畳についている。その腕のなかに、雪子の頭があった。(中略)二人の足は平行に伸びたままだった」。
今までずっと"縦"の姿勢だったのが、いきなり"横"の姿勢になっている。
横になって体を密着させてキスをしているうちに、海彦は我慢できなくなってセーラー服の上から胸に触る。雪子はわずかに抵抗。
次は胸を直接触りたくなってしまった海彦は、「あなたの全部がほしい」(礼儀正しくお互いに「あなた」呼ばわりしている)と雪子におおいかぶさり、「結婚するんだ、愛し合ってるんだ」と叫びながら、雪子のスカートのバンドをはずしホックをはずし。雪子、今度は必死で抵抗。
しかし臨戦態勢に入ってしまった海彦の勢いは止まらず、とうとう「雪子の下半身は白い下着だけ」になり、「理性の脳裏で、最後の抵抗」をしつつも、「手は雪子の熱い腿をすべって」ついに「ある触感を薄い布を通して海彦は指の先に感じた」(ちょっと待て。いきなりそこ?胸を触るつもりだったのでは? 順番飛ばしは大人になってすることだよ海彦君‥‥)。
からだが震えて、海彦は「一瞬、迷った」。この隙をついて雪子はスカートを穿き、外に走り去ってしまう。残された海彦は激しく落ち込み、後悔と自責と絶望のカタマリとなって「泣いたりうなったり自分の頭を殴ったり」し続ける。
そして数時間後、雪子がちゃんと戻ってくるのである。
「私を嫌いにならないで!」
「ぼくが悪かったんだ」(以下略)。


戦後すぐの田舎街の十六、七才の若者が、このくらいまでいっていたのかどうかはよく知らない。しかし、当時の純愛映画には決して出てきそうもないシーンも、小説では描かれていたのである。
そこでは、やはり「男>女」である。結構積極的な雪子も、最後の場面では圧倒的に受け身側に立たされ、思わず「そんな女じゃないのよ」(女学生の台詞としては微妙だが)と口走る。
いざという時に男の暴力が出てしまい、彼女を傷つけたことを恥じている海彦は、純愛を通して異性愛における「男>女」の現実を身をもって知ったのである。
純愛ものでも性を描かないとリアリティが獲得できないし、そこに当時の若者なりの「崖っぷち」感が感じられないと、説得力がない。そこを押さえたこの小説の着眼点は正しい。


ただし、彼女がいいとこのお嬢さん、つまりちょっと高めの女だが健気で純粋で芯が強く、不良にも優等生にもつけ狙われるような抜きん出た別嬪という、男子から見たらもうよだれが出そうな設定になっているのが、いかにも男目線だ。
「結婚するんだ、愛し合っているんだ」という台詞も時代を感じさせる。「結婚」が、セックスに承認を与える(というか勢いをつける)言葉として使われているのは興味深い。





昭和三十八年(一九六三年)に出版されて百四十万部という当時で戦後最大のベストセラーとなり、ドラマ化、映画化されたのが、『愛と死をみつめて ある純愛の記録』である。不治の病に冒されたミコこと大島みち子とマコこと河野実との往復書簡集。二〇〇四年に新装復刊されて、初版八千部が即日完売という異常人気を記録した。

愛と死をみつめて―ある純愛の記録

愛と死をみつめて―ある純愛の記録

愛と死をみつめて [DVD]

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昭和三十七年には『愛と死のかたみ 処女妻と死刑囚の純愛記録』という書簡集が出版され、三十万部のベストセラーになっている。びっくりするくらい似たタイトルだが、特にサブタイトルに注目だ。処女、死。昔から純愛イメージを決定づけてきた二大要素が揃っている。


「処女妻」の山口久代はもともとキリスト教の信者であり、死刑囚との結婚も信仰に基づいたものであった。その後出版された『エマオへの旅立ち 『愛と死のかたみ』その後』』という本の中で、あまりに『愛と死のかたみ』が世間に騒がれ、商売のネタにされたことへの戸惑いが記されている。彼女は「どうかこの本が福音のじゃまにならぬように、主を伝えるために役立ちますように」と祈ったという。純愛本というより福音本だったのである。  
が、出版社が考案したものであろうこのタイトルから導き出されるのは、「肉体を排除する愛こそが真の愛である」という観念である。
「処女妻と死刑囚の交換書簡」でもよかったようなものだ。それをあえてそれを「純愛記録」としたのは、世間一般に「純愛=純潔」イメージが既に共有され、巷で純潔な純愛映画が当たっていたからである。


純愛小説や映画における純潔という条件は、しぶとく生き続けてきた。まるで、日本人の純潔への伝統的な憧れが、純愛ものに集結しているかのようである。
戦前昭和の純潔のアイコンと言えば、小津映画のヒロインで"永遠の処女"こと原節子。そして戦後はもちろん、国民的アイドルだった吉永小百合
昭和二十九年(一九五四年)に公開された純愛映画『ローマの休日』のオードリー・ヘップバーンも、清純、純潔な印象が強い。彼女は特に日本人に人気のハリウッド女優だと言われるが、この伝統的な"処女好み"を考えると納得できる。


こうした中で多感な青春期を過ごしたのが、『愛と死をみつめて』に涙し、純愛に憧れる『ジュニアそれいゆ』世代である。
しかし誰でも不治の病になっているわけではないし、結ばれたくても結ばれないせつない恋など、そう簡単に手に入らない。だいたい結ばれない恋では結婚できない。悲劇の純愛物語は見ている分にはウットリできていいが、それが自分の身に降り掛かってきちゃ困る。純愛テイストは、恋愛結婚に花を添えるものでなくては。
だから、結婚前はセックス抜きのおつきあいをして「純愛気分」を満喫する。
同時にその相手が夫として妥当かどうか(特に経済力)も、見合い結婚なみに冷静に検討する。
そして恋愛結婚という流行りのパターンでゴールイン。やっぱり純潔な体に純白のウェディングドレス(もしくは打ち掛け)を着てお嫁に行きたいと。
ロマンチックへの憧れはあるが根が堅実な五〜六十年代の平凡な女の子たちが思い描いていたのは、おそらくそういう純愛っぽい恋愛結婚=「純愛結婚」だっただろう。


一九六〇年代後半にはついに、恋愛結婚が見合い結婚の数を抜いている。
"運命の相手"と出会って恋愛結婚し、子どもの二人も作って"幸福な家庭"を築く。大正時代の廚川白村の『近代の恋愛観』で「こうすべし」と謳われたことは、四十年の間にじわじわ浸透し、「そうするものだよね」というゆるやかで強固な規範となっていく。
というわけで、二十世紀初頭から一九六〇年代までの純愛ものは、概観すると基本的に「純潔純愛」ということになる。その基本的ラインは、
1. 主人公の年齢は十代終わりから二十代前半までに集中(中年男女の純愛ものはない。ヒロインは処女)。
2. 基本的にセックスのない恋(精神性を重んじ、性欲は隠されるか間接的に表現される。恋が成就しても、セックスに至る前に物語終了)。
3. 恋の成就を阻む障害、規範、人間関係などがある(親の反対、不治の病、身分が違う、相手が婚約・結婚しているなど)。


「純潔純愛」物語はまず、男が回想する「失われた女と青春」であった。
「社会の前にあえなく敗北する個人」を賞賛するロマンティシズムは、近代文学の十八番である。そこで若かりし日の恋をそれなりの経験を経た大人の作家が感傷的に描けば、「シクシク、メソメソ、クヨクヨ」路線となりがちである。


同時に純愛物語は、「家」と性規範に縛られた女の怨念とファンタジーの投影であった。
どこかに王子様がいて、いつか必ずこの不幸な私を迎えに来てくれる(来なかったら恨む)。このシンデレラ・コンプレックスは強力で、純愛は夢見る女子の憧れの恋となった。


戦後の目覚ましい復興や"明るい日本の社会"建設ムードの中で、さまざまな純愛ものには、若い男女の恋は清く正しく美しくあってほしいという願いも込められた。
それは、やはり目覚ましい「性の解放」に不安を覚える人々の、「泣き」と「癒し」になった。結局、純愛は「経験値の低い若者の幼い恋」、純愛物語は「所詮は女子どもの慰みもの」という世間一般の認識を覆すことはなかった。


ただ、六十年代の純愛もの(現代劇)で、女の子は大変積極的であった。どうかすると男よりも大胆で、事態が深刻になればなるほど肝が座ってくる。ついでに目も据わってくる。家出とか後追い自殺とか、過激な行動に出がちなのも女子。
「耐える」かあっけなく「死ぬ」かしていたヒロインは、「粘る」ようになり、ついに「行動に出る」までに成長した。
しかし、危なっかしいほど純粋な若いヒロインの行動は、大人の社会から疎外される。そこで彼女たちが死んだり恋人を失うことは、理想が必ず現実に負けることを意味していた。


純愛は、世の中の規範とは本質的にそぐわない。個人の思いをまっすぐ通すことは不可能である。ひたむきに行動すればするほど、追いつめられる純愛者。
この悲劇的なイメージは、七十年代に受け継がれていく。(続く)