私は蝶になりたい

例のゴマダラチョウの幼虫のその後。
二匹いた芋虫の一匹は体長五センチくらいまで成長し、一週間ほど前、蛹になった。薄い緑色の蛹である。芋虫の頃はちょっとキモがっていた私も、蛹は動かないので平気だ。


動き回ると言えば、もう一匹のまだやや小さめの芋虫が、数日前行方不明になった。
「あれ?おかしいな、おらんがや」
「え、いなくなったの?その辺にいない?よく探してよ」
芋虫だから、枝を離れてそう遠くまで行くはずがない。その二日前もいないと思ったら、すぐ後ろに立てかけてあった額の上をのんびり移動していた。こいつは、特別落ち着きのない芋虫か。
夫と二人で隈無くゲタ箱の上を捜索したが、どこにもいない。
「下に落ちて、私のサンダルの中に潜り込んでたらやだよ」
「おらん。どこ行きやがった、あいつ」
「ゲタ箱の裏側に行っちゃったんじゃないだろか」
早く見つけないと、変なところで死んでしまう。忘れた頃に芋虫の屍骸を発見するのは厭だ。
「いた!こんなとこにいた!」
なんと、ゲタ箱に接した傘立ての中の、私の傘の柄にしがみついていた。いったいなんで、こんな辺鄙なところまで遠征したんだろう、食べ物もないのに。
一日おきに夫が瓶の小枝を新しいのに取り替えているのだが、この芋虫は、枝の葉に少しでもみずみずしさが失われると、新鮮なおいしい葉を求めて旅立ってしまうようである。特別グルメな芋虫か。


夫は毎日観察に余念がない。「ほんとに好きだね。なんで?」と尋ねると、「かわいい」「きれいだ」「見ていて飽きない」「先が楽しみだ」ということである。
私はこの十年以上、夫に「かわいい」「きれいだ」「見ていて飽きない」「先が楽しみだ」と言われたことがない。
私は芋虫になりたい。


今日、家に帰ったらゲタ箱の上に、台所の戸棚に仕舞ってあるはずの大きい金ザルが伏せてあった。なぜこんなところにザルが?と思って中をよく見ると、一匹の蝶が羽を閉じて小枝に止まっていた。とうとう羽化したのだ。蝶の下には蛹の抜け殻がくっついていた。おそらく夫が出がけに、今日あたり羽化しそうなので、飛んで行ってしまわないよう上からザルを伏せておいたのだろう。
ゴマダラチョウはその名の通り、焦げ茶に白ゴマのような大小の斑点のある中型の蝶だった。特に華やかさはないが、まあきれいと言えばきれいかもしれない。蝶はやはり姿かたちがエレガントだ。あの芋虫と比べると、「蝶に変身」ってまさにこういうことだなあと思える。


夕方、夫から電話があった。いきなり「生まれたか?」。まるで「赤ん坊生まれたか?」のような弾んだ声だ。
「生まれたよ。私が二時に帰ってきた時、もうチョウチョになってた」
「そうか。昼頃出がけに見たら、蛹が透けて中が見えとったんだよな。そんでもう生まれると思ってよ。あー見たかったなー生まれるとこ。まあでも、もう一匹おるでええか。そうかそうか生まれたか、よしよし。んじゃ」
夫は一方的に喋って電話を切った。
何が「よしよし」だ。私は昨夜から風邪気味で咳が止まらず、「明日仕事行けるかなあ」とボヤいていたのを知っているのに、そのことには一言も触れない。頭の中はチョウチョでいっぱい。
帰ってきてからは、玄関先で靴も脱がないまま、「おお、やっぱりきれいだなあ」といつまでも見とれていた。
私は蝶になりたい。


しばらく見とれていた夫は、
「じゃ、悪いけど死んでもらおう」
と言い、蝶の胸を指で摘んで殺し、パラフィンの三角紙に包んでタッパーにしまった。
「後で標本にしよう」
やっぱり、蝶にはなりたくない。