躓きの石とともに

「子供」(ドロシー・ロー・ノルト)


この詩は、以前仕事していた短大の保育科の教室に貼ってあるのを見たことがあり、その時は「ふーん、子供は褒めて伸ばせってことか。でもなんか説教臭くて好きじゃない」くらいにしか思わなかった。
で。改めてこの詩を読んで感じたことは、「前半部、ほとんど自分に当てはまるよ‥‥」。
以下、私個人の話です。

批判ばかりされた子供は、非難することを覚える

ちょっとでも父親の意向に沿わない態度は、こっぴどく批判された。その反動か、高校生くらいから批判(というか非難)の快楽を覚えてしまい‥‥。それで口が悪くなってしまったんだな(ネットではまだ抑えているがリアルでは悪い)。

殴られて大きくなった子供は、力に頼ることを覚える

学校の成績が悪かったり反抗すると、よく父親に張り飛ばされてた。父は軍隊に入っていたせいかすんごいスパルタだった。その因果か、今はちょっと腹が立つと夫をピシピシ叩く(DV妻と呼んでくれ)

笑いものにされた子供は、ものを言わずにいることを覚える

親が厳しくてテレビもろくに見せてもらえず、学校での話題についていけなくて笑われたことがあった。だから「教えて」と言うのはやめて黙ってた。だって恥かきたくないもの。その代わり、得意分野ではしゃしゃり出た。今でも、言ったら笑われそうなことについてはなるべく黙ってる。当たり前だ。

皮肉にさらされた子供は、鈍い良心の持ち主になる

これだけは当てはまってない。「鈍い良心」じゃなくて「皮肉にさらされた」のところ。父ははっきりものを言う人だったので、皮肉はなかった。皮肉にさらされた自覚がないのに、今は人の気持ちも考えないで皮肉ばっかり言う鈍い良心の持ち主になってしまった。なんでかね。


父は、自分が理想的な環境で絶対的に正しい教育をしていると、信じて疑わない人だった。純粋で情熱的でさまざまな良いものも与えてくれたが、自分のしていることが客観的に見えない極めて頑固な人でもあった。
私は概ね「いい子」をやり通し、傍から見たら立派な親によくできた娘と見えただろうと思う。
でもノートには「おとうさんなんか死ねばいい死ねばいい死んじゃえーーー!!!」と描き殴った。謀反は妄想の中だけで済ませた。


人を非難することに時折暗い喜びを感じ、感情に任せて身近な者に暴力を振るい、少し弱気になると口を閉ざし、自慢できるほど上等な良心は持ってない。私はそういう大人になった。
その「根」は子供時代の家庭環境によって形成されたと思っている。むしろ、子供時代から思春期にかけては親の圧力で抑えられていたが、親から自立してから、折に触れてじわりじわりと顕在化してきた。


それらの面が、ある時期一気に噴出してプライベートがぐちゃぐちゃになってしまった時、父を怨んだことがあった。自分の中に、自分が一番嫌っていた父の属性が確かにあって、コントロールできない。
あんなに厳しくしてくれてなければ、もっと頻繁に褒めてくれて、もっと伸び伸び自由にさせてくれてれば、こんな偏狭なヒステリックな性格ではなく、もっとおおらかで優しいバランスのとれた性格になってたかもしれないのに。
人間関係ももっとうまくいってたかもしれないのに。
そんなね、あんた親のせいにしてるけども、結局あんた自身の問題でしょ?今こうなっているのは、全部あんたのせいでしょ?
‥‥と、もちろん自分にツッコミを入れましたよ。もう入れまくった。そして直そうと努力してみた。こころもち直った面もあった。
ただ子供の頃の家庭環境が、自分のある基盤を堅固に形作っているという実感に変わりはない。


この詩への批判として、「子供時代にネガティブな面に染まったとしても、本人の意志やちょっとしたきっかけで、それはいつか変えられるものだ」といった意見も散見した。それは、今つらい環境にいる子供やその影響下にいる若い人にとっては、希望の言葉だ。
しかし、既にそのまま大人になって時間の経ってしまった人は? 
子供の時に刻印されたものをほとんど温存させたまま、いい歳まできてしまったら? 
努力しても変えられなかったら? 断ち切ったはずのものが思いがけず回帰してきたら? 
自分の意志の弱さやきっかけの掴めなかったことを、後悔し続けねばならないのか。


無防備な心に刻みつけられ、自分の中の深いところに根を降ろしてしまったもの。それは長らく私の足を引っ張る「躓きの石」だった。躓くたびに頭にきて蹴飛ばした。もう二度と現れるなと穴を掘って埋めた。
だがいくら蹴っても埋めても、その石はいつのまにか私の足下にあった。
40過ぎて、私はようやく悟った。
この石は、「私そのもの」なのだと。
この石なしに、今の私はない。そのことを否定も肯定もせずにおこうと。


あの詩は好きではないが、冒頭の部分を受け入れた上で、こう付け加えたい。
批判ばかりされた子供は、非難することを覚えるだろう。
でも「非難しかできない人間」になるわけじゃないよ。非難すべき時に非難もできなかったらむしろまずい。
殴られて大きくなった子供が、力に頼ることを覚えるのは当然だ。
殴られなくたって、そのくらいは覚えるよ。それを見境無く振り回すかどうかが問題。
笑いものにされたら、ものを言わずにいるのは普通のことだ。
ぺちゃくちゃ喋らない分を溜め込んで、他の形でより雄弁に表現するようになったりするものだよ。
鈍い良心の持ち主でいい。
良心が敏感だったら肉も魚も食べられないし、皮肉に三倍返しすることもできないじゃん。たまに「人って残酷だな。自分って厭な人間だな」と後ろ暗い気持ちになるくらいで丁度いい。


以上、あまり立派な大人になれなかった子供時代の自分へ。