「知的」と「莫迦」と相対主義

文学とは何か - しあわせのかたち(3/13)※追記:現在このブログは閉鎖されている。
【要約】
テクストの解釈に唯一の答、間違った答というものはない。「正解」は読者の数だけある(ということにポストモダンの「新批評」ではなっている)。多様性が文学を豊かにするもの。すべての読み方は正しいっちゃ正しい。
(追記:文芸批評の推移や文学の歴史的位置づけなどについて書かれたところはすっとばしてます。議論喚起的なところのみ取り出していることをご了承下さい。)
【コメント欄発言要約(敬称略)】
ohnosakiko:でも「面白い読み方」と「つまらない読み方」はあるのでは? それはどうやって決まってるの?
sho_ta:「面白い/つまらない」ってより「開いている/閉じている」と言う(「新批評」では)。「開いているテクスト」とは「次に続くテクスト」を生み出すもの。
ohnosakiko:「次に続くテクスト」を生み出すにも、一定以上の知的レベルが必要では? それを決めるのは何? あと、「開いているテクスト」はその応用可能性にあると思う。
takisawa:つまり頭のいい人と莫迦がいるんだよ。頭のいい人は莫迦の読みも理解できるが、逆は無理。「何でも正解」とか言いながら「開いた/閉じた」と区別するくらいなら、「知的な読み方」と「莫迦の読み方」があると言えばいいんじゃね?


 ↓


「学問」、「科学」という名の信仰 - しあわせのかたち(3/15)※追記:現在このブログは閉鎖されている。
【要約】
文学批評も行き詰まってはいて、敷居を低くすれば莫迦ばっかりになるし、高くすれば参入人口が減って痛し痒しなのだが、そもそも人間は前に進もうとするものであるから、我々は未開人ではなく近代人であることを自覚して「選択肢が多い方が賢いし幸せだ」と信仰告白した上で、この相対主義無限後退の中でも常に問いを発し続けることが、「何かを生み出す可能性」を担保するのではないか。あと、「開いたテキスト」の応用可能性はいいけど、その思想が万能だとした時、思想は死ぬ。
【コメント欄】
takisawa:結局、莫迦に説明するのが面倒臭いから相対主義逃げしてんじゃないか。知的と莫迦の歴然たる差はあるだろ。莫迦に「おまえは莫迦だ」と頑張って言ってみろ。
sho_ta:「もっと遠くて高いところから飛んでくるミサイル」が怖い。
takisawa:そこで莫迦になる自覚と覚悟はないのか。
sho_ta:あるけどミサイルは避けたい。衒学趣味者だし。
takisawa:だいたい「知的/莫迦」の話がなんで「幸せ/不幸」の話になるんだ。
sho_ta:科学も学問も人々の幸せを目指すものじゃないか。そもそも知的と莫迦の「歴然たる差」のモノサシ(のモノサシ)はどこにある?
takisawa:じゃあ麻薬でラリパッパが一番幸せという話?
sho_ta:それはそれでいいんじゃね? 相対主義をくぐり抜けたとこでどうするっての。弥勒菩薩が来るまではこうしてるしかしゃーないじゃん。
takisawa:じゃなくて、たとえば30点以下は明らかに莫迦ってのがあるだろ。「誰が点数決める」問題まで相対化するのか。
ohnosakiko:知的愉しみを享受しているsho_taは、弥勒菩薩なんか出てこない方が幸せなのでは? 知的と莫迦の違いがわかる知的な立場にいながら、「間違った答はない」なんて言ってるのは変だとtakisawaは言ってるのでは? 「思想の万能性を信じるな」は時々悪しき相対主義に見えるけど。それをやめた先はわからない。
takisawa:>sho_ta ラリパッパ教を望む人間がそんなにいるとは思えん。>ohno 読み方のレベルはあるんだから極端に低い読みには「正解はない」とか言わず「莫迦」と言えということ。相対化やめたら宗教があるよ。どれも選べないなら怯えて暮らすしかないが。 
ohnosakiko:「大きな物語」なき後はsho_taのような言い方しかないんだろうけど、ポストモダン相対主義によって知的な人が莫迦の再生産をしていることは自覚するべきだ。私は相対主義を批判するが何も選べないので怯えて暮らしてる。衒学趣味者だってほんとは怯えてないかな。


 ↓


科学者の天体運動の研究と百姓の足元の泥濘 - 力士の小躍り(3/16)
【要約】
明らかな莫迦莫迦と言っていいんじゃないかという話なのに、ただ相対主義的撤退戦というのはあまりにも臆病だし、元のテクストの価値すらも否定するものではないか。「思想の万能性を信じたら思想は死ぬ」って、そもそも思想=イデオロギーとはあるフレームで世界を切り取る万能性を前提としたもので、それを当てはめなくてもいいことにまで当てはめた時に莫迦に見えるだけ。問題は、一つの見方しか知らずにいる莫迦と、いろいろな見方を知った上で選び取れる知性との違いであって、それを「正解はないからどっちも間違ってない」なんて言ってていいのかよ。
【コメント欄】
ohno:同意。sho_taは相対化に、いつもマルクスフロイトフェミニズムを出すな。あのロマン派ウヨクめ。だいたい死んだのはマルクス主義じゃなくてソ連だろ。
sho_ta:君達ね、私が「これは自分自身の判断基準が「時代性と地域性に限定されたものである」と認めたうえで(相対主義スパイラルを一周回ったうえで)「やはり、選択肢が多いほうが賢いし幸せである」と、「宣誓(信仰告白)」するのがよいのではないかと思います」と書いてるのを読んでそう言っているのかね?
ohno:そうだよ。sho_taは豊富な選択肢を知ってて「これが正しいだろう」を選べる知的な人で、実は「どっちも間違ってない」なんて思ってないはずで、選択することを知らない莫迦との差はそこにあるのに、何ではっきり言わないのかって話をしてるんだよ。(←今ココ。続きがあれば随時追加する)


 ↓


相対主義者は相対主義の限界を見ることができるのか? それもまた相対主義が見せる幻想に過ぎないのではないか? - しあわせのかたち(3/18)※追記:現在このブログは閉鎖されている。
要約不可能(私の頭では)。sho_taさんがとてもお疲れだということはわかった。



最近コメントを書いた三つの記事を、細部大幅割愛の上まとめてみた。コメント欄の発言も相当短縮しているので、興味のある方は記事ともども是非元の方をどうぞ(sho_taさんは「衒学趣味者向け」と予防線を張っているが、そんなことはない)。
あちこちで繰り返されてきた議論のバリエーションの一つだと思うが、私の個人的関心は、「正解も不正解もない→相対主義→多様性万歳→問い続ければ可能性が」で救われたこととダメになったことは何か?にある。自分の本でもこのあたりについて触れているが、あらゆるジャンルで論じられる問題だと思う。
この3人だと煮詰まりそうなので、新たなコメント者が欲しいところです(が、この感じじゃ無理かも)。


●追記
「知的」と「莫迦」と相対主義(考察編)- Ohnoblog2