id:aozora21さんへのレス - ここには言葉しかないのです

※長文の苦手な方は御遠慮‥‥いや避けた方が無難です。途中に追記(6/24)を入れました。


前の記事を「こちらは基本的に、公開されているテキストから読解力も文章力も想像力も恥の感覚も感じられない人の相手はしませんのでよろしく」と締めくくったところ、aozora21さんがお相手にはなれそうにありませんという記事を上げていました。
そこで私への幾つかの確認が入っていました。質問形での確認ですが、トラックバックを頂いていませんので、どういう意図なのか少々図りかねています。
で、相手はしないと公言しましたが、読んでいるうち気が変わりましたので、質問も兼ねてレスしてみます。


takisawaさんのコメント欄で私のブックマークコメントから『世界にひとつだけの花』が象徴するものを関連付けていたのは認めていただけますね?


前の記事でも、言及するならどうしてリンクをはらないのかと訊いているのですが、なぜその手間を惜しむのでしょうか。
takisawaさんのコメント欄で私がaozora21さんのブコメに触れているのは、こちらの最後の方(直前のtakisawaさんの問いを受けている)、『世界にひとつだけの花』に触れているのはこちらの最後です。いずれも同じ記事(『子供が育つ魔法の言葉』という詩を批判するb_say_soさんの記事とそれへの反応について)のコメント欄です。以下、少し前からの私の発言を抜き出しますので、ご確認下さい。

で、その反対にもってこられるのが、「人はいつでもかわれる、間違いはいつでも挽回できる」http://d.hatena.ne.jp/b_say_so/20070920/1190301287です。凡庸な世間知(環境は人を作る)に凡庸な言説(人にはさまざまな可能性がある)で返しているだけなのに、平等思想や人権主義や民主主義信仰と一体化したそういう「希望の言説」が何の疑いもなく賞揚されてるような空気が、個人的にはひたすら気持ち悪いです。

>ぶっくまーくこめんとのaozora21さんは、「迷いながら答えを探しているのが愛しいですが」というのは、賞揚されてるような空気を作る人々ですかね?


よくわかりませんが、無条件賞揚とはちょっと違うのかなという感触です。それより「愛しい」ってのがひっかかりました。「彼女は今迷いながら答えを探している。私も若い頃はそうだった。かつての自分を見るようで愛しい」みたいな(違ったらごめんなさい>aozora21さん)。そんなこと私が書いたらbさんには「何を上から目線で。人の気も知らないくせに」と思われそうで書けません。

そういうツッコミが、読み方の違いで生じるんじゃないかということです。
従って、なぜ読み方が違ってくるのか、単にb_say_soさんと瀧澤さんの背景が違うだけの問題なのか、書き手の意図と異なる読みをした上での批判に賛同が集まったのは何故か?は考察に値する問題だと思います。

>綺麗事へのアンチはニヒルで格好良いというのと、発言者のツィッターが女子高生みたいで可愛いのと、超高学歴で可愛いのと、他にありますかね?


「世界にたったひとつの花」教。「人はいろいろです」教。「頑張れば未来が」教(←全部繋がってる)。

以上です。aozora21さんの「ブックマークコメントから『世界にひとつだけの花』が象徴するものを関連付けていた」と読むには、かなり無理があると思います。
ただ、aozora21さん自身が「(あの詩の)書き手の意図と異なる読みをした上での批判に賛同」した一人だと自覚されていたのなら、私の上の発言は仰るように捉えられるでしょう。
それとも、どこかのブコメ(探しましたが見つかりませんでした)*1で、「人それぞれです」といったことを書かれていたり、ブログでも基本的にそうしたスタンスのように思いますので、上の「人はいろいろです」教をご自分のことだと思われたのでしょうか? 
私はaozora21さんを特定して書いておりません。特定するには材料不足だったので、「よくわかりませんが、無条件賞揚とはちょっと違うのかなという感触です」と書いています。


それから、nogaminさんとのやり取りに関わらず、Web日記やブログの記事を題材に、そこからWeb上で垣間見える人格を分析していらしたのも認めていただけますね?


どの発言、あるいは記事ですか? 具体的に指摘して下さい。


「nogaminさんとのやり取りから」と書いたのは周辺を指したもので、nogaminさんを分析したとは書いていません。


??? aozora21さんはこう書かれていました。

今はないようですが、前のブログでのnogaminさんとのやりとりからも、大野さんは直接会って対話したことのない(データが不足している)方の人格を分析・判断して躊躇いもなく公開するように感じました。

「nogaminさんとのやりとりからも」に、「nogaminさんとのやりとり」は含まれます。この文は、私がnogaminさんの人格「も」「分析・判断して」いたという意味です。それ以外に読みようがないと思います。なぜ「nogaminさんを分析したとは書いていません」と言われるのか、理解しかねます。「人格」が抜けただけでそんなに意味が変わりますか? 
また、なぜそんな無理筋な注釈を後で付け加えたのかもよくわかりません。


私自身についてあの歌の象徴するものと関連付けられるのはいささか早計に感じましたし、このようなことはあまり公開して欲しくないとは今でも思っています。それゆえ「躊躇いもなく公開する」という非難めいた文章になりました。


あの歌は直接出てきませんでしたが、去年、私とtakisawaさんがaozora21さんのブコメについて言及していた件につき、aozora21さんの難しい話はよくわかりませんがという記事のコメント欄で、不快である旨伺いました。その時、気に触ったのだったら申し訳ないと言っていますので、もう終わった件だと認識しています。
今回、私の『世界にひとつだけの花』考に疑義を呈するのに、なぜ再びそれを(さらには半年以上も前のnogaminさんとの件まで)持ち出されたのですか? 関連性がわからないのですが。


私が「Web日記やブログの記事を題材に、そこからWeb上で垣間見える人格を分析して」いるとして、「そのこと自体は特に問題視しておりません」と仰いましたね。引用されている私の発言「ウェブ上でできるのは、ウェブ上に言葉やふるまいとして現れた現象について分析し考察することだけです」には同意されているわけですよね。
ならばaozora21さんのブコメが分析されたとしても、特に問題ないのではないですか? 人が分析されるのは構わないが、自分は嫌だということでしょうか。誰でもなかなか自分の望んでいるようには見られないものですが。



nogaminさんとのやりとりについて、自分の記憶とネット上にあった第三者の証言(前の記事参照)から書きますと、私はやりとりの中でnogaminさんに「自意識過剰だ」「ヒステリー反応だ」「読解力がない」などと言い、nogaminさんは私に、「学生を教えているなどと私は信じられません。あなたの信用は少しは下がった方が被害者が増えずにすむのではないですか?(中略)同じことをきっと日常的にもしていらっしゃるはずですから、私のほかにも同じような目にあった人がいるはずですし、嫌われたり憎まれたりしているはずだと思います」などと言いました。
どちらも相手のweb上の振る舞い、言表から読み取ってそれを言っているという点では同じです。その点は「特に問題視」しないのですよね? 問題があるとすれば、どちらがネット上の態度批判に留まらず、相手の実生活にまで踏み込んだ人格攻撃をしていたのか?という点です。


aozora21さんの言及は、nogaminさんの言葉は棚上げし、私の姿勢を問題視するものでした。再度、その文面を引きます。

そこまでこだわったのは理由があります。昨年10月にtakisawaさんのコメント欄にて私の一つ二つのコメントを指してあの歌の象徴するものとして分析していたからです。実名で単著がある社会に対する影響力のある方の発言なので非常に困惑しました。


今はないようですが、前のブログでのnogaminさんとのやりとりからも、大野さんは直接会って対話したことのない(データが不足している)方の人格を分析・判断して躊躇いもなく公開するように感じました。

takisawaさんのところでこう分析されて「非常に困惑」の文のすぐ後にある文章ですし、「躊躇いもなく」という表現からしても、非難されていると感じるのは自然だと思います。しかし論拠は示されていませんでした(コメント欄が失われているから無理なんですが)。
それで「中傷」(=根拠のない悪口)だと言いました。なぜ根拠も曖昧なままいい加減なことを言うのですかと。私は上に引いた一連の文章から、自分に(だけ)一方的なネガイメージを付与されていると思っています。


●追記(6/24)
「直接会って対話したことのない(データが不足している)方の人格を〜」は、「リアルでの人格を〜」という意味だと思います。aozora21さんもそのつもりで書かれていたでしょう。でなければわざわざ「直接会って対話したことのない(データが不足している)」とは書かないはずです。
web上の人の言動について推察したことはありますが、リアルにまで踏み込んだ(ex : あなたはおそらく普段の生活でも○○でしょう、といった発言)覚えはないので、「中傷」だと言いました。「人格について酷い決めつけられ方をされたのは、私の方です」(前の記事参照)の「人格」も、当然リアル人格を指しています。
その後「nogaminさんを分析したとは書いていません」と追記されたり、私がweb上で人の言動を分析している点を問題視してないと言われて混乱したのですが、これらは当初の文を「web上の人格(言動から推し量れるもの)を〜」と読み替えさせようとなさっているためではないか?と思いました。そうすればそれは「事実」であって、「中傷」ではなくなるからです。
あくまで推測です。でも、そう推測しないとどうにも辻褄が合わない気がしますので、追記しておきます。
(最初から明確にそう書かれていれば、私は「中傷」とは言いません。ただ、なぜ「データがほしいだけ」なのにここでそういう話を持ち出したのか?という疑問は残りますが)





また、「困惑した」のも当時の感想で、大野さんが実名でこのようなことを書かれるのに驚いたのです。私のWebでの交流からも、実名の方は対個人に向けてはたとえWeb上で認識する人格についてでも、触れないように細心の注意を払っていると感じておりましたので。


そうですか。私はたまたま実名を名乗っておりますが(経緯はこちら)、匿名は別として、顕名者と実名者の発言内容には特に差を感じておりません。実名者であろうと顕名者であろうと、web上で認識できる他者の振る舞いや言表から推察したその人自身について、「頭がいい/悪い」「論理的/非論理的」「感情的/冷静」「謙虚/ずうずうしい」などと評しても構わないと思っています。もちろんその評の根拠が示されている限りにおいてです(それが根拠として妥当かどうかは、読者が判断すればいいと思います)。
なぜ実名だと「触れないように細心の注意を払」わねばならず、顕名ではそれがOKなのでしょうか。ご説明願います。


似たような日記はたくさんあるでしょうから、日頃からコミュニケーションを取っている人はクリリン発動して内心不愉快だろうと老婆心ながら思いました。


あの記事はnogaminさんのブコメ断片部での反応(最初の記事はこちら)を見て書きましたから、nogaminさんがそれに反応したのは正しいです。クリリン発動ではありません


大野さんはaozora21は「大野が書いているから」気に入らないから反発するのだとされてましたが、この手の文章にはたいてい反発を覚えるので大野さんに限ったことではありません。


そうですか。私は「この手の文章」を時々書いているし、aozora21さんもご存知だと思います。それでも私には何の反発感情も違和感情ももっていないということですね。残念ながら私はそのようには受け取っておりませんけども。


私は現実の小学校で教師たちがあの歌をどのような主旨で子どもたちに歌わせているのか、大野さんの知人の小学校教師でもいいですし、友人から聞いた話でもいいですから実例を知りたかったのです。私にはにデータがないのですから、俄かには信じられないのは特におかしいとも思いません。ネットではあるようですが、過激な反論意見は目立つのでそれが標準であるとは思えません。


前の記事を読まれましたよね? 小学校教師の内面を推し量った箇所はもちろん想像であり、私の見方です。一つの見方を示すのがいけないということでしょうか?
小学校の教師の知り合いはおりませんが、もし訊いたらaozora21さんが花の命という記事で示したような、好意的な解釈を理由として言われるだろうことは想像できます。そうした一例を示したとして何か意味がありますか?
aozoraさんが「信じられない」と言っているのは、私が小学校教師に対して立てた見方についてでしょう。「信じられない」ではなく、「受け入れられない」ではないですか? 受け入れたくないものは受け入れなくていいのではないでしょうか。私はaozora21さんに「私と同一の見方をせよ」と強いた覚えはありません。


また「過激な反論意見」(?)を「標準」だとは一言も言っていません。今回の議論では発言者の誰一人言っていないはずです。
「反論意見」ではなく、あの歌をそれぞれの個性を認めるものとして素直に受容する態度、好意的な解釈こそ、「標準」でしょう。そのことを前提にして、私の「花」記事は成立しているのですが。


実例が示されないと私の体験に基づくものでは『世界にひとつだけの花教』が大野さんがおっしゃりたいことと違うものになってしまいます。


違っていてもいいのではありませんか? どうしても摺り合わせる必要がありますか? 『世界にひとつだけの花』教に言及する時に、「私はこう解釈している」と書けばいいじゃないですか。私は私で書きますし。あとは読み手が判断すればいいことでしょう。


私はただ、推測ではないデータが欲しかっただけであそこで再び「Web上の人物を分析をしている」と非難するつもりではありませんでした。


では再び伺いますが、なぜわざわざ「直接会って対話したことのない(データが不足している)方の人格を分析・判断し、躊躇いなく公開」といった文章を入れたのですか? 
「データが欲しかっただけ」なら、そのことだけ書けばいいはずです(ちゃんとトラバ付きで)。


それから、ブコメにも書きましたが、『根拠のない自信』や『変化すること』については大野さんとは関係ありません。純粋にAntiSepticさんとのやりとりより自戒したことです。


わかりました。


『今回の件をなぜいつまでもあなたが言及しているのか、去年の私と別の人とのやりとりを印象操作付きで蒸し返しているか、はっきり申し上げます。』

他人の心を中身を「はっきり申し上げます」とは…。


「他人の心の中身」など知りません。私が推測し「はっきり申し上げ」た内容は、aozora21さんの去年からのweb上の発言から散見されることです。aozora21さんのweb上の振る舞い、言表から申し上げました。そんな言い方では足りないと言うのであれば、「aozora21さんが私に反発感情を抱いている」と思われる箇所をすべて挙げてもよろしいです。時間はかかると思いますが。
もっともいずれの件も、「私はそんなつもりではなかった」と仰るだろうとは推測します。web上の自己イメージはどこかでリアルの自己イメージと連続していると思います。しかし他者から見た像は、その人のネット上の振る舞いや言表から構成されるものです。それが違うという(当たり前の)ことしかわからないでしょうね。


いえやめておきます。お相手にはとてもなれそうにありませんので。


これだけ引用し違和感を示しておいて、最後に逃げを打つのですか?(そう見えました)
異論があるのなら、はっきりものを言ったらいいでしょう。反論があるのなら、もっと論理立てて書いて下さることを切に望みます。
それとも、いくら言ってもどうせ論破されるからということでしょうか。私にもそうした経験は山ほどあります。それで山ほど口惜しい思いをしています。でもそれは仕方ないことです。ここには言葉しかないんですから。



●参照記事
id:aozora21さんへの反論
『世界でひとつだけの花』考
ブログに現れる「私」という症候
これはひとりごとではないです。つっこんでください

*1:やっと見つけましたぁ! なんと私の旧ブログ記事につけられたブコメでした(それで見覚えがあったのか)。http://b.hatena.ne.jp/aozora21/20071009#bookmark-6109911