「知的」と「莫迦」と相対主義(考察編)

前の記事に一旦追記したが、やや長くなったので明日の日付のところに書く。


「どれも正解とか言っても、莫迦はやはり莫迦ではないか?」について、「学問」、「科学」という名の信仰でsho_taさんは、「つっこみどころ満載なテクストは学術の世界では最初から切り捨てられる」ということを言っていて、アカデミックな判断基準があることを指摘している。
つまり、「莫迦な読み方」は巷にあるけど問題にはされないのだと(学術分野では)。そりゃ当然でしょうね。


一方で、中学生の「セカチューって面白いよね♪」と、プチインテリの「蓮實はナントカ」議論を例として上げて、「「的確な判断」の判断基準といった無限後退の問題がある以上「これが的確」と言うことはできない」とも言っている。
これは「読者の数だけ「正解」がある」の「新批評」の考え方だ(文学とは何か - しあわせのかたち)。「新批評」ってポストモダン文芸批評の、アカデミズムの最前線なんですよね?(よく知らないけどたぶん)
でも「セカチューって面白いよね♪」という「読者の答」は、そうした学術分野では切り捨てられますよね、やはり。


レイヤーの違う問題を一緒くたに論じているような気はする。
しかし「間違った答はない」としながら一方で足切りはあるんだから、言ってることとやってることが矛盾してると言えないか(sho_taさんでなくて、学術の世界が)。


話はずれるが、「セカチューって面白いよね♪」がなぜ大量に出てきたのか、その理由を時代背景や社会・文化環境や世代や偏差値から詳しく分析していくことで、見えてくるものはあると思う。これは「莫迦莫迦だ」と切り捨てることとは違う考察のあり方だ。
こういうのは、学術の世界では「研究価値がない」として相手にされないのだろう。文芸批評の対象作品は、ある一定の枠内(有名文芸誌掲載の純文学)からしか選ばれないらしい。早い話、セカチューについて論文書いても、大学の教授や准教授にはなれないんだろう。
ただ最近は少女マンガについての研究論文も卒論として認められるようだし、対象はいわゆるハイブロウのものだけに限った話ではなくなってきていると思う。在野に目を移せば、優れたマンガ批評はたくさんある。SFもそうだ。最近はケータイ小説の批評もある。


「読者の数だけ「正解」がある」という考え方を、アカデミズムの最前線は出した。
なら、「筆者の数だけ「正解」がある」というのも言えないか。
プチインテリと中学生の読みとどちらが「的確」かは、「「的確な判断」の判断基準といった無限後退の問題がある以上」できないとすれば、純文学とケータイ小説の優劣の判断も、「「的確な判断」の判断基準といった無限後退の問題がある以上」できないことにならないか。
ただ発表される媒体が違うだけ、という言い方も可能ではないか。
相対主義なら、そこまでいかなければならないではないか。
‥‥と乱暴に思うが、そうはいかない業界事情があるのでしょう(美術にもある)。


「読者の数だけ「正解」はある」は、「作者の意図が唯一の「正解」ではない」を言うための、つまり「作者の死」を宣言するための方便というか、ちょっと言い過ぎでもフレーズとしてインパクトがあるから言っちゃえ、みたいなことだったのかしら(よく知らないけど)。
確かにどんな読みでも、その読者の生きている時代背景や社会・文化環境や世代や偏差値から詳しく分析していくと、「この人がそう思うのは、まあ自然だろう」ということにはなるかもしれない。個々の読者の立場に立ってみれば、それは無限に言えてしまう。


たとえば、私の本についてのネット上の感想を見ていくと、書き手からすれば「いやそうじゃなくてー」なものもあれば、「それは確かに」なものもあれば、「よく読み取ってくれはった」と思うものもある。
それらを見て私は、「あの本を"そのように"読む固有の諸条件が、それぞれの人にあるのだな」と考える。これは同時に、読者の感想を"そのように"受け取る固有の諸条件が私にあるということだ。
sho_taさんがこちらで、
>自分自身の判断基準が「時代性と地域性に限定されたものである」ことを認めたうえで(相対主義スパイラルを一周回ったうえで)
と書いていた通りである。


だが、ある作品について「すべての読みは正解」とまで言うことには、やはり抵抗がある。「明らかに30点以下の莫迦はいるだろ」(by id:takisawa)もあるが、そもそも「すべての読みは正解」と言っているのは、「誰」なのか。その主体はどこにあるのか。そう言い切ってしまえる主体というものを、私はうまく想像することができない(ここで「主体」なんて言葉を使うことが、そもそも間違っているのかもしれないけど)。
「すべての読みは正解」とは、「すべての答は等価」ということだ。何もかもが等価に。フラットに。スーパーフラットに。アートについてそう言ったのは、それなりに知的権威のある人だった。権威の言葉だから人は耳を傾けた。影響も及ぼした。
つまり「スーパーフラット」理念を唱えても、その「構造」はフラットでは決してない。


sho_taさんは先に引用した言葉に続けて、
>「やはり、選択肢が多いほうが賢いし幸せである」と、「宣誓(信仰告白)」するのがよいのではないかと思います。「莫迦莫迦である」と。「我々は未開人より幸せなんだ」と。
と書いているから、やっぱ「30点以下の莫迦」にいくら説明しても無駄、とは思っているんです。
誰が点数をつけるかと言えば、選択肢の多い賢い層(=知的権威、最終的に学術業界か?)です。
ただ、選択肢が多いほうが常に「幸せ」かどうかは、ちょっと保留にしておきます(なんて言うと、相対主義スパイラルにはまっていることになるのだが!)。


‥‥まとまらないがアップする。