講評会

前記事に続いてデザインや美術学校関係の話。
美術、デザイン系の学校の生徒は、それ以外の学校の生徒がほとんど体験しないある「試練」を日常的に科せられる。
それは、衆目の中で作品を他人と比較され、批評されるということだ。


音楽だと順に演奏し、演奏ごとに評価なり批評なりはもらっても、ジャンルの特性上、同一時空間で他人と比較され順位づけられてアレコレ言われるということはない。映画、演劇、ダンスなども同じだ。芸術ジャンル以外を見渡してみても、理系や文系の研究発表は一人一人行われるから、一斉に見比べられて衆目の中で優劣をつけられるということはない。そういう相対評価は、すべての発表が終わった最後に出てくる。
ところが美術に限っては(映像やパフォーマンスなど時間に関するものは別として、絵画、彫刻などモノとして自立している美術作品は)、作品を同じ空間に並べられ、比較され、優劣を付けられ、批評される。時にはけなされる。ジャンルの宿命だから仕方ない。


どこの学校もそうだが、一課題終わると全員の作品を並べて講評会(合評会と言う学校もある)をする。学生にとってはかなり緊張を強いられる時間だ。
内心「かなりうまくいった」「これは評価されるんじゃ」と思っている学生はいいが、「失敗した」「どんだけ酷評されるかな」「何も言ってもらえないかも」と思っていれば、全員の前に並べられるのは苦痛である。
皆の作品が一同に並んだ中にある、明らかにうまくいっていない自分の作品。隣と比べて明らかに見劣りする自分の作品。もう穴があったら入りたいような気分。でもここで逃げると「あいつ根性ないよな」ということになるし、何より講評を聞くのも勉強の一貫ってことになってるし、一人帰るわけにいかない。こうして講評会は針のムシロとなる。
私も同じ道を通ってきたのでよくわかる。大学ではそこまで追いつめられた気分になったことはないが、予備校時代は講評会のある日は朝から胃がシクシク痛かった。


かつて仕事していた美術系予備校でも講評会は毎週のようにあったが、やはりメインになるのは、デッサン・コンクールの講評会である。コンクールでは講師の指導が一切入らないから、それぞれの実力がそのまま正直に出る。
講評会はこんな感じで行われる。
シーンとしたアトリエに「よーし時間だ、デッサンやめー」の講師の声がかかると、あちこちからフーッと溜め息が漏れ、学生達が渋々(だったりイソイソだったり)画材を片付け始める。中には諦めきれずいつまでもデッサン画面にしがみついていて、「往生際が悪い」と言われる学生もいる。
人数の多いクラスでは50枚以上のデッサンがずらりと壁際に並ぶ。学生を退室させて講師数人でああだこうだと協議しながら、上位から順にデッサンを並べ替える。最初は全員一致で「これが一番だ」と言っていたのが、よく見ているうちに順位が入れ替わることもしばしばある。


予告してあった講評開始時間の少し前から、学生がアトリエの外の廊下にひしめき合っている気配がする。やっとドアが開かれて入ってきた彼らを観察していると、もともと上手くて常に上位にいる学生は一位から順に自分のデッサンを探していく。すぐ見つからないと顔色が微妙に変わるのがわかる。逆に「今回ダメだった」とか実力不足を自覚している学生は下位から順に見ている。受験が近づくと目が皿のようになる。
その後、各講師から総評があって、大抵上位から順に一枚一枚評される。一人の講師がかなり辛口講評した場合、別の講師がフォローに入ることもあるが、あまりに普段より出来が悪いと輪をかけて酷評されたりする。
講評会は1時間から長い時は2時間以上に渡る。ズバズバキツいことを言われて涙目になる学生もいる一方、予想以上に褒められ隣の友達に「よかったじゃん」と小突かれて喜んでいる学生もいる。まあ小突いた学生は自分の方が上位だから余裕なのである。


「どうやって採点しているのか見学したい」という意見が学生から出て、彼らの前でライブで作品の順位づけを行ったことがあった。これはこれでキツいものがあったと思う。特に、最初は上の段に置いてあった自分のデッサンがどんどん下の方に持っていかれたりした日には。「なんでアイツが自分より上なんだ」と至極不満そうな顔をしてる学生もいる。もちろん講評でその理由は明らかにされる。
順位は「芸大の一次試験に合格できるかどうか」という基準で決定されるのだが、ある時、そういう順番に並べて講評した後で、「講師が個人的に好きな作品順」に並べ替えるというのをやった。三人の講師がそれぞれ上位に選んだ作品は、先の上位作品とすっかり入れ替わっていた。「入試の基準は一つだが絵の評価は単一じゃない。まあちょっと肩の力を抜け」ということだ。頑張っているのになかなか結果に結び付かない学生の気持ちを救うという目的もあった。



大学でも同じような講評会があるが、課題の内容によって最初に学生にプレゼンさせたりするのは予備校とかなり違う点だろう。
デザイン専門学校でもそういうことをやっているけれども、私の受け持っている1年生のデッサンでは、作品を並べて講師が喋りまくる普通の講評会である。
皆ほぼ初心者で、美術系の学生とは違って絵心のない子も少なくないし(ごくたまにびっくりするほど上手い人も)、当然デッサンのモチベーションも相対的に低い。「最後に並べて一枚づつ講評するよ」と言うと「ええーっ」と驚いている。最初はとにかく恥ずかしくて厭だという思いが先に立つようだ。


ついこの間やった幾何形態のデッサンでは、約40枚のデッサンを8枚くらいづつホワイトボードに貼って、「さあこの中でどれが一番自然に見えるでしょう? 順に指していくからコレだと思うのに挙手して」と言ってみた。また「ええーっ」だ。
30秒ぐらい見比べる時間を与えてからやってみたら、おおよそ私が良いと思っていた順に挙手が集まった。たとえ上手く描けなくても見る目はちゃんと持っているのだ。一般の人が見ても大体同じような結果が出るだろう。もちろん全然手の上がらない作品については、講評でフォローする。


講評のポイントは決まっていて、最初のうちは少しでも良いところは盛大に褒めることにしている。
「形の正確さではコレとコレだけど、空間感で言うとコレが抜きん出ている」などと別要素を比較して褒めたり、「離れて見ると地味だけど、近くで見るととても丁寧に形を追っているのがわかる」とか「鉛筆の使い方が上手くなった」とか「清潔感がある」とか、とにかく何か探して褒める。真顔で褒める。
その代わり、ある程度できていても授業中よく喋っていたりサボっていた学生には、「君の実力はこんなもんじゃないよね」とくさす。くさすにしても自尊心をくすぐるのがポイント。そして、褒められるのにやや飽きてきたかなというところでガツンと言う。
自分の作品を他人の作品とともに改めて眺め、どう見えるのか客観的に判断し内省することの重要性にはっきり気づくのは、始めて三ヶ月くらい経ってからになる。ちなみにマンガコースの学生の間では私の講評を「公開処刑」と言っているらしい。