お知らせ

今週末に、静岡県袋井市にある月見の里学遊館というところで、トークセッションに出ます。以下、月見の里学遊館HPより。

6/13(日)
月見の里自由大学シンポジウム 
誰もが自己表現できる時代に、アーティストに残された役割とは?
13:00〜14:30
パネリスト 大岡 淳(月見の里学遊館芸術監督/演出家)
      平井 洋(音楽プロデューサー)
      大野左紀子(大学非常勤講師)
全席自由 入場無料


 18世紀から19世紀にかけてのバッハにはじまりベートーヴェンへと至る西洋芸術音楽は、貴族階級の享受物であった“ハイアート”が、「市民」のもとへ解放されていく時代の産物でした。「市民」の手に入った“ハイアート”と“生活アート”の境界がなくなり、芸術表現が職業芸術家だけの特権ではなくなっていく時代が、20世紀であったとするならば、21世紀は芸術表現がさらに「市民」の自己表現として発展していく時代となるかもしれません。「市民」というキーワードを軸に活動を展開している月見の里学遊館は、職業音楽家が提供するハイアート・プログラムを「市民」が享受することの意味を考えます。
http://usagihall.com/event/TSProject/0613/index.shtml

※追記:パネリストの一人で企画者の大岡淳さんのブログに詳しい告知がありますので、是非ご覧下さい。


出演依頼を受けた時は、アーティストをやめた私が「アーティストに残された役割」について何か語る資格があるのだろうか?と一瞬思いました。「アーティストの役割」について美しい言葉を並べるのは簡単です。「誰にもその役割を決めることはできない」とも言えます。
現代アート業界で実際にアーティストに期待されているのはまず、資本主義カルチャーとしてのアートのブランド力と制度と市場の延命に寄与することでしょう。近代市民社会である以上「アートは万人に開かれたものである」という啓蒙の言説は必要だけれども、同時に資本主義社会でもある以上「アートはマニア(知的変態)のためのブランド商品である」という構造も維持されねばならないことになっている。「誰もが自己表現できる時代」にプロとアマを隔てるのも結局は、ブランド力、制度のお墨付き、市場の流通力。


‥‥とか言ってしまうと話が殺伐として終わってしまいますが、「なぜ今多くの人が自己表現に向かうのか」はとても面白いテーマです。『アーティスト症候群』(明治書院、2008)に書いた「アーティストと呼ばれたいという被承認欲」あたりの話に加えて、表現行為のハードルの低下、表現場所や媒体などの拡散、言語コミュニケーションの不全感と自己肯定感の希求、消費者から参加者、生産者へ‥‥といった観点から、私個人はテーマに接近してみたいと思っています。
シンポジウムの後、クラシックのコンサート(有料)が行われるので、上の案内文はその観客向けに音楽寄りになっていると思われますが、アート全般(隣接領域を含めた)の内容になる予定です。
お近くにお住まいで興味のある方は、どうぞお気軽にお出かけ下さい。


アーティスト症候群―アートと職人、クリエイターと芸能人

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