私、ジェームズ・コバーン派です。あるいは「男だけの世界」

ohnosakiko2008-07-20

『荒野の七人』(1960)の中で誰が一番カッコいいかと言えば、およそ8割の人が当時確固たる地位を築いていたユル"王様"ブリンナーを食ってしまったスティーブ・マックィーンを挙げると思うのだが、私は断固として、ナイフ投げの達人ブリット役のジェームズ・コバーンである。
大脱走』(1963)の中で誰が一番印象に残るかと言えば、おそよ9割の人が盗んだバイクで走り出すヤンキーな大尉を演じたスティーブ・マックィーンを挙げると思うのだが、私は断固として、盗んだ自転車で悠々と逃げていくセジウィック役のジェームズ・コバーンである。


ジェームズ・コバーン、いいよね」と言っても、ジョン・スタージェスの西部劇やサム・ペキンパーの戦争映画が好きな人でないと、「誰それ?」と言われることがある。たまに「ああ、SPEAK LARKの人ね」と言われる。かなしい。LARKのCMに出ていたのは80年代。あれはあれで貫禄たっぷりの大物黒幕っぽい役柄がハマっていたが、体調が思わしくなかったコバーンは、当時60、70年代ほど映画出演していなかった。現役アクション俳優だった頃のコバーンが素敵だ。
右上は、30代半ば(『大脱走』の頃)と思われるコバーン様のご尊顔。このジロリ目のまんまでニカ〜と歯を剥き出して笑うと、かなりワルい顔になる。でも味のある馬ヅラですね。ホレボレ。この歳になってあまり自分の男の趣味を書くのはアレだと思うが、ジェームズ・コバーンは私のスクリーン初恋の人なので書く。


まだビデオレンタル屋もない頃、昔の作品を安価で見せてくれる名画座というものがあって、しょっちゅう名画座通いをしていた。池袋文芸坐では、一階で洋画、地下で邦画を上映しており、300円から400円出せば往年の名作が2本以上見られた。70年代の終わり頃。
そこである時、ジョン・スタージェス監督特集で『荒野の七人』と『大脱走』を併映した。どちらも初めて見る映画だった。これで私はジェームズ・コバーンという、やたら背は高いがそうイケメンでもない顔の長い俳優にすっかり魅せられてしまい、連続3日文芸坐に通った。


ずっと後になってヴィデオやDVDで見た『電撃フリントGO!GO作戦』『電撃フリントアタック作戦』のキザで不死身なスパイ役も、『シャレード』のオードリー・ヘップバーンを怖がらせる得体の知れない一味の男も、『ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯』のビリーを執念で追い続ける保安官パット・ギャレット役も、『戦争のはらわた』の冷徹そのものな叩き上げのシュタイナー伍長も、アカデミー助演男優賞をとった『白い刻印』の酒飲み暴力親父役もみんなよかったが、『荒野の七人』と『大脱走』で私のコバーン観は出来上がった。曰く「地味派手」で「無駄のない」人。


地味なのはセリフが少ないからだ。『荒野の七人』では11個しかない。どれもほんの一言だけだ(元ネタの『七人の侍』で言うと久蔵の役)。
登場シーンでは、柵に持たれて長い脚を投げ出し、顔にカウボーイハットを被せて寝ている。決闘したがっている男に脚をこづかれて、人差し指でカウボーイハットのツバをおもむろに上げて相手をチラリと見上げ、また元に戻す。無言。
メキシコ人の村に行く途中の野営では、皆の後ろで寝転んで本なんか読んでいる。村に着いても、ユル・ブリンナーに声を掛けられるまで木の根方でのんびり昼寝している。
一歩間違うと「やる気あるのか?」という態度だ。もちろんやるべきところではきっちり仕事人なのだが、がっついていくという暑苦しい感じがまるでないブリットのキャラは、飄々とした風貌のコバーンにぴったりだった。
大脱走』でも、「ジタバタする」とか「苦悶する」とか「怒る」とか「喜ぶ」いった感情表現の派手さは皆無。出番はそう多くないが終始落ち着き払っていて、ゲシュタポに捕まる脱走者が多い中、運良く逃げおおせてしまうのが印象に残る。


痩身で手足が長いので、何に出てもそれなりに目立った。体の動きに無駄がなくスマートでエレガントだ。悪役だと、そのエレガントさが不穏さも醸し出している。アクション系にも関わらず、哲学書でも読んでいそうな複雑なニュアンスが表現できる、ちょっと毛色の変わったポジションにつけていたように思う。
しかし同年代に活躍していた俳優と比べても、やはり地味だった。ポール・ニューマンほどの演技派ではなく、ロバート・レッドフォードのような華もなく、スティーブ・マックィーンのような茶目っ気やショーン・コネリーのような色気には欠け、チャールズ・ブロンソンほど汗臭くはないが、クリント・イーストウッドみたいな才気はない。
西部劇、戦争映画、サスペンスは似合っても、恋愛映画には出られない。だいたい顔が恋愛映画向きではない。「電撃フリント」シリーズではやたら女にモテているが、基本的には「女なんてめんどくせ」と思っているような役柄が多い。『荒野の七人』も『大脱走』も、人格としての女はほとんど出てこないホモソーシャルな世界。そういう「男だけの世界」、男だけの美意識の中でのみイキイキする俳優だった。


「男だけの世界」でヒットしたちょっと前の作品に、『ブロークバック・マウンテン』(2005)がある。古代ギリシャでは敵と闘う長旅の中で友情を深め合うホモソーシャルな共同体から、ホモセクシャルの土壌が生まれたのだったが、この映画は、ホモフォビアを内包したホモソーシャルでの、ホモセクシャルな関係を描いていた。女との関係より上位に置かれる男と男との緊密な関係。
ここから再び、スタージェスやペキンパーの「男だけの世界」を見てみると、男達が闘いによってホモ性を昇華しているのは明らかではないだろうか。重要なのは闘いであり、仕事であり、それを実現するための男同士の結束である。女などハナから眼中にない。女を排除する男だけの世界。
いいなあ。女の私には羨ましくてしょうがない。羨ましいというか、なんか悔しい。たとえその裏に女性嫌悪が潜んでいたとしても。女だけの関係をモチーフにして、ここまでカキーンと厳しく清々しく硬派な世界を描くのは、かなり難易度が高いと思う。


「男だけの世界」は、かつて西部劇や戦争映画に溢れていた。日本では任侠映画があった。そのモチーフはすっかり古びて、今だとやっぱり女との絡みが少しはないと、あまり人気は出ないだろう。いや、かつてのヒーローに替わるような強いヒロインが喝采されるのだろう。
女のいない世界で、ジェームズ・コバーンのような俳優が輝いていたのは、前世紀までかもしれない(本人は2002年没)。でも、そこに描かれた「男だけの世界」、男の美意識を、男は手放すことはないのではないかと思う。