痴漢と心太

高校一年の頃(かれこれ34、5年前)、朝の通学時に同じバス停から同じバスに乗る中年の男がいた。バスの座席はいつも6割方塞がっており、その人が私の隣に時々座ることを最初はあまり気に留めていなかった。
ある日、隣に座った男は新聞を広げた。その肘が、私の脇腹に何度も触れた。自分の腕でガードしたが、座席の背もたれに肘を押し付けるようにして同じことをしてきた。
そこでやっとこれは痴漢だと気づき、私は肘で押し返した。すると新聞を畳んで腕組みをし、腕を私の腕に密着させて外から隠しながら、今度は私の脇と二の腕の間に指先を差し込んできた。
もう少し大人になっていたら、はっきり「やめて下さい」と言っただろう。あるいは「この人、痴漢ですっ」と声を上げたかもしれない。でも当時の小心でウブな私にそこまでの勇気はなく、俯いたまま黙って席を立った。
その男とは降車駅も同じだった。そそくさと降りた私の後ろから降りて来て、追い抜きざまに男はこちらを振り向きニヤッと歯を見せた。頭にカッと血が上り、一瞬殺意を覚えた。それ以降、時間帯をずらしてバスに乗るようになった。


痴漢から逃れるために席を立ってから、バスを降りるまで私がずっと思っていたことは、「今すぐ一番大好きな人に抱きしめてもらいたい」ということだった。その頃私は片思いしている男子がいて、その子にしっかり抱きしめてもらいたい!と強く思った。
なぜそんな心理状態になったのかと今考えると、「剣によって受けた傷は剣によってのみ癒される」ということなのだろう。
私は知らない男の人に変なふうに触られて、自分の体が汚れてしまったように感じた。具体的に汚れたわけではないが、そう感じた。その汚れが払拭され心身ともに癒されるのは、大好きな人に抱きしめてもらうことだけだと思った。
女友達に打ち明けて、「そりゃ厭だったでしょう」「大声上げてやればよかったのに」「酷い奴だよねー」とか言われても、この感じはたぶん消えない。
もちろん片思いしている男子を前にして、「私、今日痴漢に遭ったんだ。つらくてたまんないから、黙ってぎゅう〜ってしてくれる?」などと言い出すことはできなかったので、頭の中で妄想しただけだったけど。


その次に私が妄想したのは、その痴漢がある時、別の女性に痴漢しているところを捕まって、大勢の人の前で恥を掻き、罵られ、軽蔑の目で見られ、警察にしょっぴかれ、刑罰が下され、職を失い、家族にも友人にも見放され、一生「痴漢犯罪者」の烙印を押されたまま孤独に生きていかねばならなくなることだった。
私が味わった以上の、その何十倍もの苦痛を味わえ。痴漢度(?)としては比較的軽かったにも関わらず、私はあれこれ妄想を膨らませ、頭の中であらゆる社会的制裁をその人に与えた。「ぎゅう〜」がない以上、そうしなければ気持ちの片付けどころがなかった。
もし私がその人を警察に突き出して彼に相応の刑罰が下されていたら、厭な感じはすぐには消えないにしても、それなりに納得したかもしれない。どうだったかわからない。いずれにしても私は行動はできず、癒されたい欲求と処罰欲を妄想の中で満たそうとした。


高校二年だったか三年だったか忘れたが、仲のいい女友達が突然、「今日、帰りに寿がきや(名古屋のラーメンチェーン店)でラーメンと白玉奢ったげる。ちょっと臨時収入があったんだ」と言った。どういうことかと思ったら、
「昨日、満員のバスの中で痴漢してきやがった奴がいてさぁ。なんか変だと思ったら、鞄で隠して尻触ってんの、弱そうな若い会社員が。降りる直前だったからそいつの手首掴んで『大声出すよ』って耳打ちして一緒に降ろして、『警察に行きたいの?どうすんの』ってちょっとドス効かせて言ってやったんだ。そしたら財布から五千円出して『どうかこれで勘弁して下さい』って泣きそうな顔で言うんで、許してやった。どうせ警察なんか行っても面倒なだけだし」
彼女の剛胆さにびっくりしながら、「ええー、それ、いいの? それ恐喝にならんの?」と私は言った。「痴漢する方が悪いんだわさ」と彼女は涼しい顔をして言った。
そりゃそうだな、そうだけど‥‥。
痴漢から巻き上げた金で飲食するのは何となく気が進まなかったが、学校の帰りに一緒に寿がきやに行った。
「何でも頼んでいいよ。五千円あるから豪勢だよ今日は」と言われたが、あんまり食欲がなく心太*1を頼んだ。彼女は「寿がきやって野良猫捕まえて出汁取ってるとか噂あったけど、美味しいよねたまに食べると。シナチク大好きー」などと言いながら、盛大にラーメンを啜っていた。
なんか知らないけど逞しいなぁこの人。それに引きかえ私は。
心太の酢醤油はとてもしょっぱかった。

*1:「ところてん」と読む。当時の寿がきやのメニューには「ところ天」とあったような気がする。実はずっと後まで「心太」と書くとは知らなかった。usauraraさんの記事で「心太=ところてん」についての考察を紹介している。とても面白い。コメント欄もどうぞ。